


うつろになる。
あんなにはっきり覚えていたものも。
うつろに、うつろに。
この言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
昔飼っていた犬のことだったり、あの時見たきれいな景色だったり、遠い日の悲しい出来事だったり。
このかるたには明確な「答え」や「勝ち負け」はありません。読み札である短い文章を聞いて、取り札であるモノクロの写真を選びます。同じ言葉を聞いても、それぞれがイメージすることは様々です。
結局のところ、他者とのズレを認識することこそが『共有』なのかもしれません。
それは少しやさしくて、少しさびしいことなのです。
[川口沙綾]
読み札のテキストと写真を組み合わせる。シンプルなカードゲームのようだが、その答えのなさに少なからずとまどいを感じるだろう。しかし、やがて言葉は記憶や感覚と混ざり合い、あなたは写真を選びとる。面白いのは、そこに生成するイメージが他者との差異を単純に浮き上がらせるだけでなく、なぜそれを選んだかの語りへとつながることである。この作品は、人が他者を認識する装置として実に楽しく機能する。皆で遊ぶことをお薦めしたい。
[芸術文化学科教授 米徳信一]

18世紀を駆け抜け、フランス革命の嵐を潜り抜けた女性。自らの制作に対する自意識を強調し、自身の画歴が持つ栄光の細部を『回想録』で語った作家。そしてフランス王妃マリー・アントワネット付き肖像画家。彼女の名はヴィジェ・ルブラン。画家は性への鋭い観察眼を保ちながら、自らの画中で述べるべきである。そして画家は鳥かごのような大きなパニエ姿の堅い宮廷衣装を、内からたたく女性の快活な姿を見つけるだろう。ヴィジェ・ルブランはそうした画家である。
[佐々木慶一]
高校生の頃に北海道で見た西洋絵画の光輝に打たれ、18世紀美術の研究をめざした。当初はロココの室内装飾や磁器の絵付けに関心があったが、パリ国立高等美術学校への留学の前に、18 世紀フランスの肖像画家エリザベート・ヴィジェ・ルブランをテーマとすることに決めた。ルーヴルやヴェルサイユ宮殿などで作品を見たり、地方の美術館で当時の無名の女性画家の研究を行った。
日本ではまだ個展も開催されず評伝も出版されていない段階での初論文に近く、ルブランの評伝を準備していた石井美樹子女史から絶賛された。フランス革命で断首されたマリー・アントワネットの宮廷画家という特殊な歴史的位置や様式の折衷性の研究、デユ・バリー夫人の肖像画との比較を通したプライヴェートな交友関係がかかわる公的・私的肖像画の微妙な差異に立ち、その分析から導いた、ルソーの啓蒙思想に惹かれたルブランによる王妃の公式肖像画の解放という着地点はユニークであるとともに説得力がある。
[芸術文化学科教授 岡部あおみ]

「書」は「アート」であるのか?
「書」は現代の日本文化の中でどう捉えられているのか?
「書」は、もはや古い化石なのか?
私はそれらについて思考し模索している。
墨の種類、粒子、分量、水の温度と配合の割合、筆の繊維、紙の性質、天気や気温、
湿度 ―
それらの組み合わせと、紙の中を自分の呼吸とリズムで描く時に起きる筆跡、墨跡、偶然性の交錯が織りなす無限のバリエーションの断片。日本文化でもある「書」としての側面、伝統をふまえながらも、既成概念にとらわれず現代における「書」「墨」のあたらしい可能性を探求する。
[豊田久仁子]
文字をその意味から解放し再構築する。墨、筆、和紙という素材を用いて表現する従来の「書」の持つ認識とは別の次元で制作された豊田の作品は、作り手と見る人がコラボレーション、競演する事の出来る不思議な空間である。書を芸術と位置づけ、源である中国の石窟に始まり日本の曽我蛇足、雪舟やジャクソン・ポロック他、洋の東西を越えた作家の数々の作品を研究。自らの立ち位置を熟考した上での研究と制作。「書」の魅力を身近に感じ楽しむ事、社会化することが豊田の研究制作の重要なコンセプトであり、作者の深いところの何・・かが見る者に響いてくる作品である。
[芸術文化学科教授 鈴木民保]

本論の主題は手品である。過去から現在、私たちの生活に欠かせない娯楽や視覚芸術、好奇心と技術は「驚き」と共に発達したことを指摘しながら、「驚異」の象徴的存在である手品の視点で検証していく。
見世物、写真、映画、科学、デジタル機器などを取り上げて虚構表現の可能性を追い、視覚文化を問い直す。それにより、手品という新たな研究領域を規定したい。
なお、本論には読心術の手品ができる仕掛けがしてある。
[森下洋平]
19世紀、科学技術の発展とともに写真や映像など新しいメディアが誕生した。
そこには、視覚や認識に新たな解釈が生まれる一方、娯楽や消費の対象として大衆の欲望を刺激し、発展していった背景があったことも見逃せない。この論文の意義は、近代の新しいメディアと手品が深く関わっていたことと、娯楽を大衆が求めた「非日常との遭遇」や「驚異」から論じたことである。社会への作用や鑑賞に立脚した新しい手品研究であり、視覚メディアを新たな視点から捉えた労作である。
[芸術文化学科教授 今井良朗]

今日、「現代」を生きる我々、存在する万物の中を流れるのは、「現代」という時代の鮮血である。そして、「時代」はそれを象徴する力を持つ、美術作品の中に見出される。私は、それを金氏徹平、名和晃平、野口里佳の三名の作品の中に見た。本論における試みは、リアルタイムにおいて、飽くことなく、膿むことのない現代を、出来る限り取りこぼすことなく書き留めることであって、それは現代に憑依する亡霊をすくい上げ、救済すべく行った行為であった。
[森 遥香]
我ら「現代」こそ虚怪。同時代美術もまた犠牲者か。絶望は蔓延するも、意志の闘争と充溢こそ、また生なる哉。
怪物的表象として現代を飽くなき叙述の標的としながら、同時代美術への先鋭な批評的営為を対置させることに成功した、意欲評論。
現代文明のみならず、人間生活と世界観形成の諸相の、一種絶望的なありさまを、徹底的に糾弾しながら叙述し、芸術表現に同時代のひとりとして伴走するその実存的な姿勢は、そのもので瞠目すべき、批評を超えたユートピア的戦意=祈りへの昇華であると、高く評価する。
[芸術文化学科教授 新見 隆]

zineという、海外のカウンターカルチャーの影響を色濃く受けている印刷物を制作。zineでは資本主義的な大量生産に対抗し、手作り、少部数印刷が重視されるため、一冊一冊が少しずつ異なる仕様になっている。既存メディアの批判、再考という観点を元に、倦怠としての日常に抗いながら、初期衝動的に、自身の身体を用いてzineを制作。日常を過ごすことが「rawsigh」= 溜息の連続であり、「労災」=労働の上での災害のようなものだというタイトル。共感可能な時代認識だからこそ身の回りという限定的な空間での直接的な身体を通じて、zineというメディアに日常を収集・蓄積していくことで、リアリティを喪失している日常を奪回しようとする。
[吉田雅崇]
タイトルがこの作品の全てを語る。raw「生の」、sigh「溜息」。(今の自分達にとって)日常を過ごすことは溜息の連続であり、そこでいちいち悩むことはまるで(生きるという)労働の上での災害のようなものだと。しかし、吉田は精神性という本質の部分から「溜息」の根源を探り、身近な事件に対する問題意識に文化的意味を持たせて広げ、面白い状況の創造、労災の回避にチャレンジし続けている。zineはそのためのもの。zine制作の背景を綴った“制作ノート”には吉田の抱える本気のジレンマと、対する情熱があり、感動が深い。
[芸術文化学科教授 楫 義明]