


できるだけ多くの人に観て楽しんでもらえるように作りました。
ごゆっくりお楽しみ下さい。
[小長谷明弘]
アニメーションの語源はアニミズム(万物に命が宿る)から来ている。動かないものに命を吹き込むことこそ、アニメーション表現の本質と言えるだろう。
小長谷君の作品づくりを見ていると、そのことを再認識せざるをえなくなる。静止画を手持ちカメラで揺らしながら撮影するというアナログな手法によって気温や湿度までも感じられる独自の映像空間を生み出した。骨太で緻密な脚本、懐かしさと無気味さが入り混じった絵柄も魅力的だ。
[映像学科教授 黒坂圭太]

万物は出会い生成と消滅を繰り返し物を渡し合い、その遣り取りは無限に続くけれど、渦中をさまよう生は滑稽なまでの反復と秩序をもってここにあり続ける。私達は増減のしようが無い絶対量を、凝固し循環させこすり合い、そしてどこへもいかない。
私は、心身が放出するエネルギーや気配との遭遇を目に見える姿にして、もう一度誰かと眺めたい。
そこで初めて、他者との共存ができるような気がしている。
映像の実写素材は片栗粉、水、セミの足、ビールの泡。
沢山の本物が制作を助けてくれた。
[小室萌佳]
小室萌佳が実写映像を組み合わせて造り出した有機的無機物や生命的機械の特徴的な形象は、一筋縄では行かぬ遣り取りをする。それらの形象は、直接的に内容を指示するような17世紀以降の二元的な記号の体系における相似関係からは離脱していて、大地が空を映し、人の顔が星に反映するような中世の思考の場に支えられているような遣り取りをする。更に、それらの微妙な細部の形や動きと2焦点の配置による応答を増幅させるために設定した鏡のような水面によって、それらの模倣関係は鎖のように無限に連結され、通常の物の世界とは区別される、純粋な「表象」の空間を成立させている。
[映像学科教授 板屋 緑]

日が落ちてから、荒々しい房総のトンネルに行く度に、自分がトンネルから出てくる暗さに飲み込まれてしまわないように、本当は今自分がいるべき場所ではないことを自覚しないよう現実逃避してきました。房総半島は、外部から来る人々を楽しく迎えてくれる観光地のはずだ。観光看板だってあちらこちらに設置してある。それなのにトンネルから発せられる剥き出しの感情は何だろうか。自分はここに受け入れられていないことを、否が応でも自覚してしまう。むしろ、この不自然な景色と同化を迫られている。キャンプで始めに火をおこすように、コンビニの明かりに吸い寄せられるように、自分のオートバイの光がトンネル内で踊っているのをレンズを通して眺めて、この場所は自分の支配下にあるのだと、虚勢を張るしか私を私に保つことは出来なかった。
[下山海太郎]
まず、美しくも正体不明な光が眼を打つ力強い作品である。一見して、類似性を強く持つその構図から鑑賞者はすぐに、それぞれの写真の光と闇の差異を楽しむ事になる。そして、光源がシルエットになったバイクのヘッドライトであること、その光に照らし出されているのが、それぞれに異なったフォルムを持った土のトンネルの壁面であるらしい事、など理解が進んでゆく、それは鑑賞者が「被写体の謎」から「撮影という営為」を発見していく道程である。道、バイク、光、トンネル、そしてその先。優れたトライであったといえる。
[映像学科教授 山崎 博]

変わりたくないのに、少しずつ変わっていく。過去に囚われて捏造した記憶は切実だが虚ろだ。もう一度生活をよく見てみる。他者と対峙したときに、自分の存在の重みが、より実感として心身に差し迫ってくる。目に見えるものも見えないものも等価に見つめ、他者から自己を問う。過去を内包して現在を生きるあり様を掴もうと試みながら、人といることの違和感や幸福感を考え続けるうちに、カメラの前にも後ろにも同等の価値を感じた。
[広瀬奈々子]
ヴァイオリニストの父、幼い妹と3人暮らしの治は、亡母の幻影に浸りながらも、健気に家事をこなし、無邪気な妹を世話する。幼馴染みにも心を閉ざし孤立感を深める中、生活のすれ違う父が同僚の女性を家に招き、溜め込んだ感情を抑えきれなくなった治は…。母が息子に弾き聞かせるピアノ、夫が妻のために奏でる小夜曲の調べにのせ、多感な心情の機微が丁寧に描かれていく。周囲と想いを重ね、静かに外に開かれる少年期の成長物語。
[映像学科講師 小口詩子]

古いビルのある一室を撮りました。
撮影しているときも、していないときも、約半年間、ずっとこの部屋のことばかり思いつづけてきました。それが映像になりました。
作品は、この期間の私自身のさまざまな出会いに支えられています。
[山田千鶴]
映像によって現された部屋と現実の物の世界の部屋の相違の要因は、自身がそこに住まい、生きることの可能性に関わっている。山田千鶴はそれらの差異を感じつつも、生きられた部屋の中心に身を置いて、執拗に対象を見つめ、撮りつづけた。そこから、物の世界に参入する一歩手前の痕跡が、この部屋を特徴付けている多数の鏡の表面をただ滑りつづける像へと移行していく過程を明示する手法を獲得している。そして、その手法を対位法的に展開することによって、その宙吊りの彼方から、生きられた部屋の堆積した時間とその物質性が、確かに、立ち現れているのだ。
その時、彼女自身がその中に、その鏡の表面に、少女の姿として滑りながらも、住まい、生きている。
[映像学科教授 板屋 緑]