阿部一真Abe Kazuma

作品写真:scenes
作品写真:scenes
作品写真:scenes

scenes

キャンヴァス、油絵具Canvas, oil paintH1620 × W1303mm × 6点、H1620 × W1620mm × 1点

自分の日常風景を自らの身体的なリズム、自然と生まれる曲線を利用しながら描き出し、そこにどのような物語が内包されうるか確かめながら制作しました。
空間を以て自己を表現することを目指した結果、生活の上でそのようなタイミングが見つかればシャッターを切り、クロッキーを重ねました。意図せず生まれる有機的なラインが美しく思えました。

阿部一真

モチーフは阿部が日常生活をしている部屋である。部屋には様々な物が溢れている。それらは何の変哲もない日々の暮らしの過程で集まってきたものだ。物たちは何げなくそこにあるが、意味もなく無関係に在る訳ではない。それはそこに在る事の意味を確かに持っているように見える。人の生活によって集められたものたちは有機的なつながりを触手のように伸ばし、日常の時間は徐々に物たちを名の無いものに変身させる。人は物と特別な関係を結び、人という生き物の巣の空間を形づくるのである。
物は徐々にその日常的な外観を脱ぎ捨てるように歪んでゆく。歪みは少しずつ集まり大きな流れを形づくる。この歪みとそれによって作られる流れに阿部の感覚と感情が体現している。それは決して特別なものではない。日々、堆積した感覚が徐々に異形の何かへと変貌するのだ。世界のよそよそしさを突き放すのではなく、なんとか自身の内界で生かそうとし、世界と阿部とが画面の中で均衡をもつ時、世界はある湿度を持って立ち現われる。そして物たちはまるで生き物のようにそこに居る。日常の生活の表層に覆われた、もう一つの生々しいリアルが露になる時が来る。

油絵学科教授 樺山祐和

鐘ヶ江歓一Kanegae Kanichi

作品写真:Pale Blue Actions
作品写真:Pale Blue Actions
作品写真:Pale Blue Actions

Pale Blue Actions

インスタレーション|木板、ディスプレイ、ほか|可変Installation art|Wooden boards, display monitor, other
映像Movie18min 27sec

私はモニターという板と木の板をフラットに扱うことを無意識に自分に課していたようです。その意識は板に限らず映像内部の要素にも滲んでいるなと感じます。目的は多数あります。でも目的そのものやその達成が前面に出ることを今は拒否しているようです。もちろん目的以外のこともいくつか配置されていて、この作品の板の木目とモニターの面が入れ替わっても何も差し支えのないビジョンを設置の途中に与えられました。

鐘ヶ江歓一

鐘ヶ江くんの普段の制作スペースを見るのは楽しい。あまり上手くない習字が額に入り、木切れや模型、おもちゃの被り物、スプレーで描いた絵のようなものでいっぱいで、そこにある時間も含めて、全体が作品として佇んでいるようでいつもわくわくする。このような幅広い遊びの感覚を制作の土台にしている鐘ヶ江くんだが、卒業制作ではオーケストラがクラシック音楽を奏でるような、フォーマルな空間を作りあげようとした。しかしこれはあくまで方便であって、実際には、二つだけの観客席に向かって、音楽ではなく視覚体験としての広大な広がりのある物語を画策した。

油絵学科教授 赤塚祐二

近藤千尋Kondo Chihiro

作品写真:みぞをなぞる
作品写真:みぞをなぞる
作品写真:みぞをなぞる

みぞをなぞるtrace a trench

映像Movie20min

この肌と肌が汗すら混ざるほど近くても
私もあなたも1人の人間だから経験が違い、言葉が違い、生まれた場所が違う。
人と人がすべてを解り合うことは到底無理だ。
声に出せば簡単に思ったことを伝えることはできるが
きっとそれは上滑りして、彼らを傷つけるだろう。

この溝にどう触れたら、彼らを少しでも解ってあげられるだろうか。
この抵抗はいつかこの溝を埋められるだろうか。

近藤千尋

映像の画面中央には上半身裸で抱き合う2人がいる。背中を向けて話す人(ゲスト)の言葉に対し、こちらを向いた人(作者本人)は、声を発する代わりに相手の背中にたどたどしく自身の言葉を綴っていく。成立しているのかいないのか、もどかしい「会話」。しかし彼らが語る「自分が経験した嫌だったこと」は、鑑賞者をたじろがせる。「美術高校を受験したいと父親に打ち明けた時に無言で平手打ちされた」と語る中国人の女性、「結婚相手を見つけてずっと日本に住むつもりなのか?」と言葉をかけられた台湾人の男性、封建的な父や祖父母に母親を「犬以下」と罵られた日本人の女性。それらの言葉は、無防備な自分が無防備な誰かに抱きしめられるという、日常を突き破った圧倒的な経験に導かれたものだろう。傷ついた弱者たちの言葉は、民族や性差といった複雑な問題をはらみながら、美しい光に満ちた剥き出しの空間に静かに降り積もる。

油絵学科教授 袴田京太朗

坂口佳奈Sakaguchi Kana

作品写真:Flat
作品写真:Flat
作品写真:Flat
作品写真:Flat

Flat

キャンヴァス、油絵具Canvas, oil paintH2273 × W1818mm、H1303 × W1620mm × 2点、H210 × W297mm

カンヴァスを一つの部屋に見立て、家具や天井や壁を再配置してみる。
そこには生活の中にある機能を持った道具とは別に、私たちの身体で感じることのできる「ある」存在が見えてこないだろうか。
「ある」存在は、絵の具のリズムや時間の交差が重なりあうことでようやく目の前に現れ、人はそれを再び身体で受けとることができる。

坂口佳奈

部屋などの室内と思われる空間が、勢いのある筆触で描かれている。手前に描かれている椅子やテーブルなどの具体的なものと、柱や台のような絵を構成するための構造物に見えるものが入り混じって、画面に複雑さを与えている。具体的なものをきっかけにして空間を把握しようとすると、筆触と絵の具の濃淡、固有色をほとんど感じさせないモノトーンの色彩によって、ひとつひとつのものは溶け合って、焦点が定まりそうで定まらない。視線は少し捻じれているように感じる空間を、手前から奥へ、上下、左右へとさまよい、心地よい揺らぎの中でいつしか絵の中に入り込んでいる。部屋は人が住むことで機能し、そこで生活する時間の中で豊かさは育まれると言う坂口は、その構造が自分の作品に近いと感じていると言う。絵を描くことは、絵の具という物質を使い、描くという行為によって、目に見えないものを可視化することだと思うが、彼女にとって絵を描くということは、生きていく時間の中で、時に疑いながら、生きているということを実感することなのだろう。絵に定着された揺らぎは、様々な思いの中での彼女自身の揺らぎであり、その揺らぎの幅が豊かさにつながるのだと思う。

油絵学科教授 小林孝亘

田上正敏Tanoue Masatoshi

作品写真:百着夜行

百着夜行The night parade of one hundred living dolls

キャンヴァス、油絵具Canvas, oil paintH1908 × W7000mm

幼いころ、寝る前に必ず母が絵本を読んでくれた。読んでもらった絵本はどれも面白かったが、一冊だけ非常に怖いオバケが出てくる絵本があった。当時そのオバケが何よりも恐ろしく、感情の読めない巨大な目が非常に不気味に感じた。
その目にジッと観察されているようで、次第に増殖していく不安感が徐々に気持ちを焦らせた。

田上正敏

横7メートルの画面の中に大きな目のお化けたちが所狭しと跋扈(ばっこ)している。目線の先を追うと、片隅に消灯しようとする子供の後ろ姿が…。着想は子供のときの、なかなか眠らない自分に向かって両親が、何度もしてくれた怖い話だと聞いている。田上は今、何故そんな昔話を思い出してこんな大画面の絵にしたのだろう。美術には幻想絵画の歴史がある。例えば歌川国芳(1797-1865)は天保の改革を批判して、その圧政を土蜘蛛の妖怪に見立て、その被害者たちをこれも妖怪として描いて物議をかもしたと言う。靉光(1907-1946)の「目のある風景」は1938年、まさに第二次世界大戦前夜の不穏な空気を感じ取って描かれたと思われる傑作だが、これもお化けの絵と言えば言えるだろう。幻想絵画は夢や憧れをそのまま描いたものばかりではない。それらは時代や社会への恐怖や批判精神から生まれた、弱い立場の叫びや弱いゆえの皮肉的な内容のものが多くある。そのような観点で田上の描いた絵を観ると、この作品における陳腐なキャラクターも、劇画的過剰さも、彼を取り巻く薄っぺらな世間の目と言えるのかもしれない。圧倒的な描写力でリアルに描かれたそれらのお化けたち、それもこんな大画面でそれらを描く必要があったのは、現代における個人と社会の切実な相互関係を表現しているからに思えてならない。

油絵学科教授 水上泰財

葉山ひなのHayama Hinano

作品写真:呼吸と日差しのリズム

呼吸と日差しのリズムRhythm of breathing and the sunlight

キャンヴァス、油絵具Canvas, oil paintH1940 × W2590mm、H1940 × W1303mm

悲しみの中にある許し、愛情の中にある静寂。
私を圧倒するものにはいつも自分の生命が投影されている。

主役をはる感情は、そのまま言葉でくくられるといい。言葉で一つに束ねれば、その感情に挟まる別の感覚は潰れて消える。潰すことが惜しいものは選んで(意識して)おいて、身体で感じたもののままおいておいて、一纏めに描いてあげよう。

葉山ひなの

これまでのフラットで明るい画面から、色幅を広げ、彩度を抑えたことによって、主体となる人体のパーツを彷彿とさせる線に、プリミティブな要素が加味されたように思う。画面に散りばめられた線は、描かれたものの存在を輪郭をもって周りの世界と切り離しつつも、色彩と呼応することによって結び付けられ、画面に独特なリズム感を生み出している。作品からは混沌とした現代の漠然とした不安感のようなものが漂い、彼女の新たな一面と、今後のさらなる可能性を感じさせた。

油絵学科教授 遠藤彰子

堀ななみHori Nanami

作品写真:漬物石でトぶ
作品写真:漬物石でトぶ
作品写真:漬物石でトぶ

漬物石でトぶTsukemono-ishi de tobu

ミクストメディア|キャンヴァス、プロジェクター、油絵具、石、角材、紙、布、綿、ゴミ、ほかMixed media|Canvas, projector, oil paint, stone, wood, paper, cloth, cotton, garbage, otherH3000 × W4000 × D7000mm

たとえば「全員ぶっ殺したい」などといった負の波動/軋轢/コンプレックス/その他諸々をいかに変換し己のエネルギーへと昇華していくか、に醍醐味があるのではないかと思う。想像力とアクションが壁を打ち破り、座標軸をもぶっ壊し、我々はどこへでもぶっ飛べる。そして恐らく、現実が人間という型を通ってところてんの如くニュルンと出てくる頃合いにうまくタックルをかますことが肝なのではないかと睨んでいる。

堀ななみ

堀さんはいい筆触を持ち、絵画を中心に制作していた。しかし4年生のある時、彼女のなかで何かが弾けてしまったのだろう。絵画は変化し、ある時からメモのようなものになった。身のまわりの出来事を記録したり、象徴的な小さな像を作ったり、あるいはアニメの一場面を丁寧に描いて壁に貼ったりした。遠くにテーマを探すのではなく、自分の感覚で面白いと思うものを身のまわりに少しずつ集める態度のように思った。ビデオも作っていると聞いた。堀さんはそれらを表現の持ち弾として卒業制作の展示に挑んだが、特徴的なのはそれらのほとんどが、床にただ置かれたり、あるいは意味なく壁に立てかけられていることだ。これは我々が作品と呼ぶものの扱いに対して批判的な強いメッセージとなった。

油絵学科教授 赤塚祐二

八木恵梨Yagi Eri

作品写真:青いポロシャツを着たおじさんと八木恵梨
作品写真:青いポロシャツを着たおじさんと八木恵梨
作品写真:青いポロシャツを着たおじさんと八木恵梨

青いポロシャツを着たおじさんと八木恵梨Uncle wearing a blue POLO shirt and Yagi Eri

インスタレーション|鉛筆、ワトソン紙、水彩絵具、ビニール、プロジェクター、オーディオ、石膏Installation art|Pencil, watson paper, water color, vinyl, projector, audio, plaster

ドローイングDrawingH180 × W160mm × 40点、H1030 × W728mm

映像Video6min 28sec

音源Sound3min 20sec

石膏像Plaster figureH300 × W150 × D200mm

おじさんの周りをぐるぐる回るよ
そうするとおじさんもぐるぐる回っているみたいだね
(青いポロシャツを着たおじさんヘおくる歌より)

八木恵梨

八木恵梨の作品は、水槽に入ったフィギュアの画像から始まる。プライザー社のそれ(立っている男性)は、水槽の中で少し動いているように見える。続いてこの小さな像のまわりを回っている作者が、バターのように溶けてしまう奇妙な、しかし絶妙な余白のあるドローイングが示される。それから、フィギュアの“おじさん”と作者である“私”との等身大に扱った水彩画の展示が40点ほど続く。
これは、想像力が導くゆるいつながりを、ユーモアに包んで提示した作品と言えよう。子どもっぽい想像と、現在の世界をしっかり見ている大人の視点の合体とも言える。そのゆるいつながりを結びつけるものとして水彩があり、自声の歌(これがまたへたでゆるい!)もある。異質なものと自分、あるいは物と人間との交流。私たちはそこで忘れかけていた想像と、描くことによって実現する可能的世界を目にすることになる。

油絵学科教授 長沢秀之