


描きたいということ
愛おしいと思うこと
私を作ってくれているもの
私を生かしてくれているもの
自分の中を埋め尽くしていることを
めいっぱい表現したいです。
[桂 典子]
彼女は人間の生活に欠かす事の出来ない「食」をテーマに、数多くのユニークな作品を創り上げてきた。丹念に描かれた奇妙な世界観からは、自由奔放で夢想的でありながら時に残酷な子供のような印象を受ける。無邪気な喜びと、そこに潜む怖さ。一見、グロテスクな世界のようにも見えるが、幼少期に誰もが感じていたであろうロマンティシズムのようなものが垣間見え、それが彼女独自の魅力的な表現となっている。
[油絵学科教授 遠藤彰子]

そこに場所があること、そのことで生じる現象や状況が自分を惹きつけます。
大事だと思っているのは、光、そこにある空間、ぬける場所(把握できる外界)、隔たりです。その関係が心地よくて安定している時、その場所とそれに対峙している自分の状態が澄んでいきます。
ただ場所があって、安心できる。
そのような光景を、何を見るのでもなくずっと、眺めていたいです。
[竹内奏絵]
アメリカ旅行での宿泊先を描いたという作品は対角線状に引き込まれた象徴的な光や、空虚な室内からエドワード・ホッパーの作品を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、ホッパーの重くざっくりとした筆さばきに比べ、竹内の筆さばきは軽やかな印象を与える。
空虚な室内に差し込む外光は、部屋にかかる鏡の中で反復され室内の静けさと相反しながら外界の世界へと観客を誘うようである。現在の刺激的で多様な現代美術表現の中では、竹内の絵画はおとなしく感じてしまうかもしれない。しかし、そこには本来絵画が持ち得る豊かな時間と空間が瑞々しく存在している。
[油絵学科教授 丸山直文]

絵画という場でおこる全ての出来事の、当事者で在りたい。
[竹畠 薫]
高速道路を疾走する車から見た流れゆく世界の感覚。光と影の交錯する夜のパーキングに漂う静寂と不思議が持ち上げる感情。そしてそれらの場所と記憶。竹畠の制作はそのような感覚と感情を伴う場所と記憶の造形化から始まった。それは橋という存在へと行き着くのだが、いつしか個人の内面的な表現を通過し、絵画が歴史的にどのように空間を表現してきたかを検証しつつ、絵画のイリュージョン性と物質性、空間性と平面性等の間を往還しながら、画面が空間へと転成し絵画となるその瞬間を見極めるべく、今日的な視点で絵画空間のあり方を探求した。現実空間と意志的に向き合い単一のモチーフを豊かなグレーのモノトーンで丹念に追求した作品は、時空と存在の意味を探求した堂々たる絵画となった。
[油絵学科教授 樺山祐和]

存在の本質は個としての人ではなく、集団としての塊にそなわっていると感じる。
例えば人が求める命の永遠性も、個としての人には与えられないが、集団としての存在のなかには与えられる。この作品では群像の表現を使い、地に根が這うような人のいとなみ、上に上にと枝を伸ばすように高みを目指す人々、その両方が同等に存在していることを表そうとした。様々な人間の個が織りなす塊こそが、存在としての人間だと私は感じるのです。
[立木健太郎]
ある者は神へと祈り、ある者はただ死を待っているかのようである。原始的な楽園の中に、人間が抱える根源的な感情が渦巻き、それらが人間の本質に迫ってくる。
現代的な作品が多い中、古典的なテーマと技法でそれらと対峙するかのようなこの作品は、内面的な意味において一際目を惹いた。画面の大きさと、その大きさに対して引けを取らない構成力とタッチは、とても生命感にあふれている。
[油絵学科准教授 遠藤彰子]

僕にとって、絵を描くことはある動作から次の動作を引き起こし進行する、連続的な運動のようなものだ。それは僕だけではできない。手と絵の具とキャンバスが相互に応答を繰り返していく中でしかできないから。もちろん、制作中にアクシデントや、うまく行かないことは多い。思いもよらぬところまで僕を連れていくことだってある。でもそれでもかまわない。絵を描くことは楽しい。僕にとってなによりも大切なのは、絵を描くことそれ自体だからだ。
[中村翔大]
絵具とは何かの図柄を描くためにあるわけではない。
キャンバスの抵抗にあい、作者の頭脳のコントロールもすり抜け、そこに思いもよらない世界をつくりだす想像の最前線の先兵なのだ。
中村は絵具にまみれながら、あるいは絵具とともに独自の絵画世界に向き合っている。絵具をたっぷり使っていながら重厚さに陥らず、弱さとユーモアをあわせ持っている。塗り重なったイメージと、全く反対のべた塗りの記号的図形が奇妙なアンバランスを示し、前者のみの絵画の時代からまたひとつ新たな時代の絵画が始まった。
[油絵学科教授 長沢秀之]

自分の美しいと感じるものを、
大切に紡ぐように描いていく。
花のように儚く、
柔らかく、そして力強く、
咲いていくように。
[水谷真弥子]
水谷の作品は夢見るような少女のロマンチックな感覚と、その対極にある奥深い濃密な情感とを併せもつ現代の曼荼羅図と言い得るものである。
花という存在を骨格として、そこに曼荼羅、山水、炎、装飾などのイメージを忍び込ませ、それらを有機的に関係づけ、統一した絵画世界を作り出すことに成功している。生き物としての花の可憐さと生々しさ、装飾性のもつ呪術的な力に支えられた作品は謎と不思議に満ち、絵の前に立つ者に名状し難い感情を浮上させる。それは花の命と作者の命とが溶け合い、この世ならぬ内界の異形の花として開花しているからだろう。仏教への興味が強い作者は宗教的な図像としてではなく、あくまで絵画空間の探求としてその興味を造形化し、内的風景として見事に絵画化している。
[油絵学科教授 樺山祐和]

たとえば画面の向こうで少年が私を見つめていたとしても、彼のまなざしの中に私はいないように。
私たちがとうに気づいていること。あらゆる物語は、こことは違う時間を生きていること。
私はモニターという窓をこじ開けて二つの時空を横断しようとする。
しかしなんということだろう。虚構の住人である彼らと私たちが触れ合うためには、結局は彼らを私が住む時間軸へと連れてこなければならない。
その瞬間に夢は醒める。
どうしようもないばかばかしさとは、いつも同時にどうしようもない悲劇性を孕んでいる。
これはその崩落感に出会うためだけの、最初から不毛な装置である。
[百 瀬文]
展示室の床の中央には水の入ったグラスがひとつ置かれている。奥の壁の何やらメロドラマ風の映像には、死者とおぼしき人物の枕元で悲嘆に暮れる女性の姿が映し出されている。そしておもむろにその女性が遺体に口づけをした瞬間、床のグラスの底からボコボコと音を立てて空気が溢れ出す。
映像とグラスの泡がシンクロしたこの仕掛けの正体は、展示室の外につくられた小さな小屋にあった。
そこには先程見た映像と全く同じ状況のなかに同じ女性がおり、展示室の映像は実はリアルタイムのものだったとわかる。そしてつくりものの遺体の口から送り込まれた空気が、展示室までつながったチューブによってグラスの底から出ていたのだった。
この単純な仕掛けがもたらす、何か世界がズレてしまったような不安感をどう説明したらいいだろう。
悲劇の死者は、実は単なるチューブの入り口に過ぎなかった。しかしそれをバカバカしいオチとして回収できないのは、確かに今そこで女性の口から吐き出された空気がグラスの泡となって、この部屋を圧倒するように拡がっているからなのだろう。
疑いようのないリアルとあからさまなうさん臭さ。
理解したはずのものから溢れ出すグロテスクな余韻。
一度見たら決して忘れることのない、観る者の感情に突き刺さる恐るべき作品である。
[油絵学科教授 袴田京太朗]

絵の具は絵の具として固まっている。
リンシードオイルはゼリー状で、
ネバネバしていてくっついてしまう。
それ自体が真実ではなくそれを見た側が何かを思う。
選択されなかったものも、
単に通り過ぎるだけの状態のものも、
皆一様に時間を止めて、
今だけ一緒にいます。
[森下麻由良]
ジャクソン・ポロックの絵画のように壁に飛び散った絵の具の塊は、実は固まった絵の具を頭にした針で画鋲のように壁に突き刺されている。この作品は壁を汚さずどこにでも移動可能だ。しかもどこか絵画に擬態しながらも、タイトルではわたしは絵ではないとあっさりと否定してしまう。さらに私とは誰か、「見る」という行為のなかからいつのまにか「考える」ことが引き出される。徹底した日々の作業の積み重ねから生まれる森下の作品は、日常のさりげないものごとを新鮮に蘇らせる。
[油絵学科教授 赤塚祐二]