自分だけのデザイン観をつくる
デザイナーはある種の説得業で、自分の考え方がいかなるものであるかを世の中に発信し続けなければなければならない。デザイナーは、基本的に社会の中で自分の名前で立っている、個としての存在である。その個に対してどういう仕事が来るかは、モノの考え方をどのように社会に伝えてきたかにある。
最初にひとつ言っておきたいのが、あまりすべての話を鵜呑みにしないで欲しいということ。いつも私は、デザインの話をしてそれが他人に歓迎されること、平たく言えば「ウケる」ことにどこか後ろめたさを感じている。仕事ができるデザイナーというのは、それだけ自分の仕事を他人に話す能力に長けているものである。そういうデザイナーが来て自分のデザインを話すのは、まるでエンターテイナーが来て観客相手にショーでもやっているかのように感じることがあるのだ。それをただ面白がっているだけでは、情報を消費しているだけである。話の背後にある矛盾や、自分だったらどうするかをリアルな想像をもって聞くことが、先を目指す為の良いトレーニングになる。何よりも大切なのは、自分自身のデザイン観をつくることなのだから。
デザインとアート
デザインとアートの違いはなにか。私はそれを動機や発端の生まれる場所の違いにあると考えている。問題の発端を、社会のなかに見つけるのがデザイン、自分の中に見つけるのがアートではないか。だからアートを評論したとしても、その根源の部分はアーティスト自身にしかわからない。その謎がアートの魅力ではないだろうか。一方デザインは、問題の発端が社会の中にあり、発見し、共有されるものをプランニングして解いていく。そして共有の中に感動が生まれる。ここが素敵だと思い、自分はデザインを続けている。
共有される感覚 〜視想花「ことばの星座」〜
私が基礎デザイン学科時代に熱中したものひとつとして、『視想花』という本がある。このなかにある「ことばの星座」というものを見て欲しい。これを通して、ことばの背景にある、観念連鎖ということを考えた。日本語を使って日本という文化を理解する人々の背景のつながりを、言葉の連鎖として表現してみたのだ。ものを理解する背景には、同一の文化圏住む人々に共有されるプラットフォームのようなものがあるはずで、それを観念の連鎖として表現している。
学生時代はとにかく考えることが必要である。社会に出たら無駄な事を考える時間が減る。学生時代は、地に足がついてないまま走っていた印象がある。しかしやがては地面を蹴れるようになる。私を含め、多くのクリエイターは純粋に学生時代に考えていた思索、思惟が伏線として今の活動につながっているように思う。
無印良品
〜「で」という考え方〜
アドバイザリーボードシステムに参加し、無印良品のビジョンを考えている。今の日本のビジネスは二極化している。ともかく生産コストを安くして最低の価格で売るか、ブランドを確立させて売るか。イタリアのビジネスの良いところは「中量生産」だった。しかし今やどんどんビジネスは無国籍化し、コストの安い国で作って売るということをどこの国でもやるようになった。ビジネスの形が世界中で均質化していると言える。だがそこで無印は決してその均質化の流れにはのらず、日本という国で培われている文化的背景を生かそうとしている。それを象徴するひとつのエピソードが「が」と「で」の考え方である。「これがいい」という「が」は、近代の自由の象徴としてもてはやされ、個人の「が」を実現できるのが良い社会だと考えられていた。しかし全員が「が」を言い続けると世界はたちゆかなくなる。無印良品では「これでいい」を目指している。ここで言う「で」は、不満足やあきらめを含んだものではなく、自信をもってこれでいい、と言えるようなものである。一方で、無印良品の広告表現では多くを語らず、見る側がそこにイメージや感情を移入できるような「空(うつ)」なる表現を用いている。
