共有される暗黙知
渋谷の宮下公園の公衆トイレにある蛍光灯看板に都市の絵を描いた人がいる。重要なのは、その絵を描いた人が、それを見て感動する人がいるということをわかっていることだ。相手が同意することの確信を、受け手を見る前から得ているのである。
アートにもデザインにもいえることであるが、それを投げたら繋げて受け取ってくれる人がいる、ということをわかっている必要がある。たとえば人は、相手にそれが受けると知っているからこそ冗談を言えるのだ。誰かが見てくれている、同意してくれると思わなければデザインはできない。それがなぜわかるのかというと、共有するものがあるからである。お互いに共有している何かがぴったりはまる、これは暗黙知である。デザインは道具だから、キャッチしてもらえるという確信をもっていなければならない。「なんとなく投げる」は許されないのだ。暗黙において成立する受け手との合意、それがデザインの核なのである。
縁と肌目
世の中には縁と肌目、テクスチャとエッジしかない。ある均質な情報はテクスチャと、その変化によるエッジで認知されている。しかし認知をとめてしまえば、結局世の中はテクスチャの切り替えでしかない。これがリアリティーだと思う。たとえば海で水平線を見たとき、その向こうが滝のように落ちているとは考えないだろう。それは、地球は丸いと教えられ、向こうが滝だなどという「バカな」情報を切り捨ててしまっているからである。この世界が自分にとってどう見えているのかということを、自分の目で、自分の肌で感じようとしていないのだ。事実、地球が丸いとわからなかった時代には、自分の生活環境の中から割り出した情報によって、向こう側は滝だと考えられていた。それがいかにするどいリアリティーであろうか。
人々が共に吸い込んでいる共有の情報こそが、デザインをする上でとても価値の高いものなのである。
行為に相即するデザイン
傘立てをデザインしてくださいといわれて、いきなり筒のようなものを考えてはいけない。まず傘を立てるということを考える。玄関の床に目地があると、当たり前にそこに傘を立てかけてしまう。ならばその目地を引けば、傘立てをデザインしたことになるだろう。
人間の行動はすべて環境によって左右されている。自分で動いているなどと思ったら大間違いだ。感覚は身体の外側にあり、人はある状況に共通に動かされている。地下鉄が地下に入るその瞬間、急に鏡を見るように、窓に映る自分を意識してしまう。隣にいるのがどのような人だか初めてわかり、マインドが変化する。窓の条件ひとつで、一斉にみんなの行動が変わる。そういうところに気がつかなくてはならない。
張りのあるもの
ただのまっすぐな線は、どこから力がかかっているかは見えないだろう。しかし、力が入っているのに動いていない線というものがある。ただの線に見えるけれど、何か力が感じられる。そんな線を引きたい。
自分の価値観を押し出して、カーブさせてしまうようなことはしたくないのだ。線には外側と内側があるが、それを最終的に見極めるのがデザインの力だ。外側と内側、そのどちらにも立つべきではない。内側の自分を見て、それを形成する外側のラインを見る。そうして複雑な状況の中で一本の関係性の線を決めていくことが、これからのデザイナーの仕事だと思う。
客観写生
高浜虚子が言ったように、俳句とはその人の心情をあからさまに歌うものではない。主観ではなく、客観でそこにある現象を詠むのである。リアリティーを持って、ダイレクトに詠むことで、相手を感動させることができるのだ。心情を込めてはいけないわけではないが、あまりに主観が入りすぎては人には受け入れられないだろう。客観写生、常に客観的に自分を俯瞰してみることが重要なのだ。
マチスも同じことを考えていたのではないだろうか。彼は絵を描く時、とても長い筆を持っている。普通の人は、近付いたり離れたり、主観と客観を行き来している。しかしマチスは、常に客観だけで描いている。自分の小手先のコントロールが出ないから線がきれいなのである。
きれいな線、きれいな色、きれいな形などというものは存在しない。そのものがきれいなのではなく、ただ状況がそれをきれいにしているというだけのことだ。意識的であることは、もっとも美から遠いといえるだろう。
