| リシツキーとチヒョルト |
||
| 1921年から1933年までを前期チヒョルトの時代ととらえると、この時期にチヒョルトに大きな影響を与えた芸術家はリシツキーである。1933年以降のチヒョルトに大きな影響を与えたもう一人の人間は、スタンリー・モリスンである。しかしアバンギャルドなデザインを志向していた前期チヒョルトとオーソドックスなデザインに回帰していく後期チヒョルトの中で、リシツキーの視覚言語と造形空間の質にこだわる姿勢だけは、チヒョルトの造形的なバックボーンとして揺るぎなく存在し続けた。 「elementare typographie」が出版されてから40年後、チヒョルトはリシツキーの特集を「TM」誌に寄稿するが、この中でチヒョルトはリシツキーのタイポグラフィに関して、少々批判的な論調をとっている。1925年頃、チヒョルトはリシツキーの「声のために」を、新しいタイポグラフィの理想と見ていた。そしてスイスへ移住してから、スタンリー・モリソンの、ニコラ・ジェンソンやアルダス・マヌティウスに始まる書物を中心としたタイポグラフィの研究と、当時の工業化社会におけるタイポグラフィのインフラの整備に関わる仕事を知ることによって、チヒョルトのタイポグラフィに対する立脚点が書物へと移行し、その結果リシツキーの「声のために」の位置づけが変わるのである。 チヒョルトは、リシツキーにおける「声のために」のタイポグラフィは、視覚言語文型の最も基本的な型の提示だと言っている。つまりそれはタイポグラフィという、枠組みによって理解すべきものではなく、もっと広い意味でのリシツキーの視覚言語における文型の一つだとの理解に変わったのだ。リシツキーの視覚言語のボキャブラリーとそれをまとめあげるシンタックスの巧みさは、限りなく広く、表現も豊かである。チヒョルトはリシツキーの代表作「自画像」(図20)を、「課題・技術・形態が、完璧なかたちで融合している」と言っている。またマヤコフスキーの「声のために」の献呈辞の「目」のグラフィックは(図21)、リシツキーが試みた言葉と文字とそのコンポジションによって概念を提示する、ヴィジュアル・シンタックスの最も象徴的な現れと見ている。この2作の視覚化へのアプローチと表現はあまりに異なるが、この視覚言語の解釈の幅広さはリシツキーを特長づけている。 チヒョルトはリシツキーが、1920年代の前半に40年後のヴィジュアルコミュニケーションにおける、メディアの多様性と、そこで要求される学際的なデザインのアプローチを既に予測していたことを読みとっていた。 40年前、強いコントラストと高感度な視感覚によって支えられ、形と意味のせめぎ合いの中から、新しいタイポグラフィとグラフィック・デザインが生成されると確信したチヒョルトは、リシツキーのこの態度を常に規範としていた。 リシツキーは自らの視覚言語の開発に向かい、チヒョルトは既成の視覚言語の構築へと向かった。リシツキーのヴィジュアルコミュニケーションデザインの試みは、チヒョルトというデザインの伝道者によって一般化され、そして日常の生活の中へ伝えられた。リシツキーとチヒョルトによって確立された、モダンデザインのグラフィックとタイポグラフィによって、このふたりの名前や仕事を知らずとも、ヴィジュアルコミュニケーションデザインに関わっている人間の全てが、彼らの文脈の内に生かされているのだ。 新島 実(武蔵野美術大学教授) |
|
|