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映画の脚本はシンプルに構成されている。台詞を中心に、登場人物の行為や、彼らをとりまく状況が、ごく簡潔に記されているだけだ。小説で言うところの情景描写は、ほとんど存在しない。いわば骨組みである。
そんな映画の世界を決定的に左右するのが映画美術だ。美術監督は、監督の意向を踏まえたうえで、それぞれの映画に固有の風景を、まったくのゼロから立ち上げる。脚本を読み込み、監督と討議を重ねることによって生まれる虚々実々の世界…。
種田陽平は、今もっとも注目を集める美術監督である。その仕事は、国内のみならず、海外での評価も高い。種田は1960年生まれ。幼少時からマンガやアニメといったメディアに親しんできた世代だ。
「子供の頃はマンガ家になりたいと思っていました。絵と物語が一体化しているところに惹かれていたんでしょうね。小学校6年生のときに、下級生向けにオリジナルの紙芝居を作ったことがあって、それがかなりウケた。そのときの盛り上がりは今でもよく覚えています」
年を追うごとに、絵を描くことへの興味が本格的なものへ成長し、高校時代、種田は美大進学を決める。自宅近くのアトリエでデッサンを学び始めたのも、その頃だ。
武蔵野美術大学への入学は1979年。村上龍が自作の『限りなく透明に近いブルー』を映画化した年だ。ちなみに村上は、ムサビ在学中の1976年、同作で小説家デビューを果たしている。
「龍さんの登場には刺激を受けましたね。そうそう、数年後、やはり龍さんが自作を映画化した『だいじょうぶマイ・フレンド』の現場で美術助手のアルバイトをしたとき、『ムサビ出身なんだって?』と声をかけてもらったことがあります。他愛もない出来事ですが、けっこう思い出に残っています」

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入学後、種田は映画研究会で8ミリ映画の制作に没頭する。第1作目はSFアクション。当時、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』や、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が公開され、世の中はSFブームに沸き立っていた。
「ムサビに宇宙人が攻めてくるという物語(笑)。校舎の模型を50分の1スケールで作ったり、UFOや宇宙人の登場シーンを合成したり。楽しむ一方で、ハリウッド製スペクタクルの影響が大きすぎやしないかと、熱い議論も交わしました」
70年代後半から80年代前半は、現在のように、映像があふれている時代ではなかった。ハード面でもソフト面でも、ビデオの普及は、もう少し先の話だ。種田のような映画青年たちは、都内の名画座やフィルムセンターに足繁く通っていた。
「エンタテインメントだけではなく、アートフィルムにも夢中になりましたね。たとえば、フェデリコ・フェリーニやジャン=リュック・ゴダール。ヨーロッパ系の映画監督の名前を知り、彼らの監督作品にも触れるようになっていく。どれも新鮮でした」
1980年、種田の人生を大きく左右する事件が起こる。寺山修司監督作品『上海異人娼館チャイナ・ドール』の製作現場で絵画助手を務めることになったのだ。きっかけは、寺山と親交の深かった画家・合田佐和子。劇中で使用されるペインティングを制作するために、出身校であるムサビで学生バイトを募集したのだ。
「寺山さんの舞台や映画は大好きでしたから、一も二もなく引き受けて、ひと夏を寺山さんの映画に捧げたわけです。お祭り騒ぎというか、強烈な体験で。授業が始まっても、熱に浮かされたように、現場のエピソードばかり話していたような気がします」
卒業後、種田は本格的に日本映画の世界へ足を踏み入れる。しかし80年代、日本映画は往時の勢いを失って久しく、メディアミックスを仕掛けた角川映画など、ほんの数社だけが意気軒昂という状況だった。
「厳しい時代でした。日本映画にとっても、自分自身にとっても。映画館にお客さんが入らず、製作本数も極端に減った。けれど、その困難があったからこそ作り手側の意識も変わり、新しい映画作りが始まり新人にもチャンスが与えられた。そういう側面もあったと思います」
80年代は、石井聰互、周防正行といった、種田とほぼ同世代の監督たちがデビューし、90年代に開花するさまざまな才能が雌伏する時代でもあったのだ。

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種田陽平という名前が、一般に知られるようになったのは、1996年のこと。種田は、岩井俊二監督作品『スワロウテイル』で美術監督を務め、架空の街「円都(イェンタウン)」を作り上げた。それまでの日本映画とは異なる斬新な発想と無国籍な感覚。その圧倒的なイメージは、若い世代から熱狂的に支持された。
以降、種田の仕事は、急速な広がりを見せていく。リー・チーガイ『不夜城』(1998)、クエンティン・タランティーノ『キル・ビル Vol.1』(2002)、李相日『フラガール』(2006)、三谷幸喜『ザ・マジックアワー』(2007)…等々、現在に至るまで、さまざまな監督とのコラボレーションを重ねている。
「20代は修業の時代でしたね。いろんな意味でキツかったけれど、それが肥しにもなっている。だから、どんな仕事がきても怖くない(笑)。それだけの経験は積んできましたから」
その言葉通り、種田の手がける物語の舞台は、無国籍な架空の街、新宿歌舞伎町、日本の土着的な村、昭和30年代の炭坑町、ヨーロッパのとある港町、架空のホテル…と、じつに多種多様だ。そんな時代も場所もまったく異なるストーリーを前に、種田はどのようにして独自のイメージを起ち上げるのだろうか。
その思考を象徴するものの一つが、ロケとセットの扱いだ。リアリズムをベースにした映画であっても、ファンタスティックな装いを凝らした映画であっても、種田のアプローチは一貫している。
「そもそも映画って、現実のようなんだけれども、現実には存在しない世界を作り上げたものですよね。美術監督として意識しているのは、ロケはセットのように撮ってほしいし、セットはロケのように撮ってもらいたいということ。撮影や照明スタッフと打ち合わせを重ねながら、映画というフィクションの中で機能する世界を、いかに打ち出すことができるか。つねにそれを考えています」
たとえば、三谷幸喜と組んだ『THE 有頂天ホテル』(2005)では、ロビーやラウンジ、客室などをセットで、従業員用の通路や地下、倉庫や裏口といったバックヤードは実在のホテルで撮影している。完成した作品を見るかぎり、両者の違いはわからない。虚構と現実が有機的に結びつき、映画的な空間が組み立てられているのだ。
種田に会いに訪れた撮影所に、数日後の撮影を控えたセットが組まれていた。戦後間もない武蔵野の家屋。窓も、扉も、テーブルも、椅子も、すべてが本物より小さい。窓の向こうに広がる田園風景は何と遠近法でつくられている。それは、現実とは違う、映画のためのリアルな風景だ。

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さらに種田は、寺山修司の映画を例に引いて、映画美術についての思考の一端を語った。
「学生時代、衝撃を受けたのが、寺山さんの『田園に死す』。青森のさびれた一軒家で、主人公と母親が食事をしている場面があるんですけど、家の壁が倒れると、実はそこは新宿駅の雑踏のまっただ中だった―そんな演出があるんですね」
時空を、日常と非日常を、瞬時に超えてゆく。これこそ映画ならではのマジックだろう。ハリウッドデビュー作となった『キル・ビル Vol.1』で種田は、登場人物が日本間の障子を開けるたびに全く違う風景が現れる空間をつくった。最後はついに、死の匂いがする雪景色、黄泉の国へ辿り着くという仕掛けだ。
こうした種田の映画美術は、じつはきわめて地道な作業によって支えられている。その一つが旅。「映画の入り口」となる風景を求めて、種田は世界の街を、日本の村を歩く。そして、セットの建て込みが始まると徹底的につくり込む。例えば、さまざまな塗料を駆使して「古さ」を演出するエージング。柱一本、窓枠一つゆるがせにしない。
しかし、それは現実の風景や過ぎ去った風景をコピーするためではない。例えば『キル・ビル Vol.1』は、アメリカ人監督のクエンティン・タランティーノによるものだが、ここで描き出された日本や東京は、「外から見たJAPANであり、タランティーノの思い描くニセモノのTOKYO」だ。
「バーチャルな空間になればなるほど、リアリティとディテールが大切だ」と種田はいう。多くの映画監督が厚い信頼を寄せる種田の仕事の神髄が、この言葉に凝縮されてはいないだろうか。
「美術助手の時代は、ちょうどバブル期でCMが全盛でした。美術監督の多くが広告業界へと流れていった。僕も何度かお手伝いしましたが、やはり僕が目指しているのは、映像と物語が一体化した世界。かつての映画の仲間から『美術助手なんてつまらないだろう』と言われたこともありましたが、映画以外は考えられなかった。誕生から100年たって、映画は古いメディアだと思われているかもしれないけれど、無限の鉱脈が眠っている。宝が埋もれているんです」
映像と物語が一体化した世界。それはリアルな夢、ファンタスティックな現実が交錯する世界だ。人間の想像力が無限だとすれば、まさに鉱脈は無限だ。「この先も、映画ならではの可能性を掘り起こしていきたいですね」と種田はいう。
![たねだ・ようへい 国内外の数多くの監督作品の美術監督。映画美術のみならず、アニメーションの美術、イベントデサイン、舞台美術など幅広い分野でも活動している。 [1982年油絵学科卒業]](http://www.musabi.ac.jp/student_life/img/2009_img_04_006.jpg)