



![]()
1936年(昭和11年)、服飾専門誌『装苑』の創刊とほぼ同時期に設立された文化出版局。母体は文化服装学院や文化女子大学などを運営する学校法人文化学園である。現在は『装苑』のほかに『ハイファッション』や『ミセス』、季刊『銀花』などの雑誌、そしてライフスタイル関連の書籍を多数刊行している。関直子が文化出版局に入社したのは1973年。10代の頃から舞台美術やファッションに関心を持っていたという。
「高校時代は年間100本以上も映画を見ていましたね。印象に残っているのが、ルイ・マル監督の『ビバ!マリア』。ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローが、とてもチャーミングで。衣装をデザインしたのはピエール・カルダン。映画館の暗闇の中で、一生懸命、スケッチしていました(笑)」
60年代はグラフィックデザイナーが花形だった時代。
「粟津潔さん、横尾忠則さん、宇野亜喜良さんたちは、すでに第一線で活躍なさっていました。皆さん、それぞれ個性的でしたし、ファッション、グラフィック問わず、デザイナーには、華やかなイメージがありました」
関が大学に入学した60年代後半は、学生運動がクライマックスを迎えた季節でもあった。
「政治的にも文化的にも“異議申し立て”が行われた時代です。私も“異議申し立て”側にいたのですが、ムサビでも入学早々、ロックアウト(学園封鎖)されました」
関が進んだのは、産業デザイン学科芸能デザイン専攻(現・空間演出デザイン学科)。舞台美術家として頭角を現していた高田一郎も、学生の指導にあたっていた。
「反体制、反商業主義を掲げたアングラ演劇も花盛りで。寺山修司さんの天井桟敷、唐十郎さんの状況劇場、串田和美さんの自由劇場、佐藤信さんの演劇センター68/71、鈴木忠志さんの早稲田小劇場……。時代の空気と表現者の思想が密接に結びついて非常にドラスティックでした。高田先生も、鈴木忠志さんの舞台を手がけられていて、舞台を見るのはもちろんですが、模型作りのお手伝いをさせていただいた覚えがあります。」

![]()
ムサビ卒業後、関は文化出版局に入社する。配属されたのは『装苑』編集部。1970年に『アン・アン』が創刊されるまでは、ファッション誌といえば、『装苑』『ドレスメーキング』『服装』などが読者に支持されていた。
「そもそもはスタイリストの友人がいて。彼女は主に『服装』で仕事をしていたんですけど、雑誌作りの世界をかいま見せてくれました。それで編集の仕事も面白そうだなと思って」
『装苑』編集部に12年ほど在籍した後、『ミセス』『ハイファッション』編集部を経て、編集長として再び『装苑』に戻ってくる。最盛期は50万部を誇った『装苑』だったが、関が復帰したときには、数年ごとに繰り返されるリニューアルで低迷を続けていた。
「『装苑』の建て直しを命じられたわけです。まずは、文化服装学院の学生を含め、未来の才能たちに向けて、ファッション業界に関わる人びとの“思い”をきちんと伝えようと思いました。そうすることで、“ファッション購入のためのカタログ雑誌”ではなく、“クリエイター予備軍に向けての専門誌”という位置づけをハッキリさせたんです」
創刊当初、『装苑』は“服装研究誌”だった。外国雑誌を参考に模倣追従するデザイン研究から脱し、服装改善と普及につとめるという、いわば洋裁にたずさわる人を啓蒙する雑誌だったのだ。関によるテコ入れは、言ってみれば、原点回帰を果たしたようなものだ。これによって『装苑』の看板である「装苑賞」の存在意義も、いっそう明確になった。専門誌がお墨付きを与える新時代の才能-そのような意味合いが前面に出てきたからだ。さらに関は、クリエイティブの事例を、ファッションだけに限らず、建築やデザイン、アートや音楽など、他の領域にも求めていった。
「発想のヒントは、いろんなところにある。ファッションだけに囚われてしまうと、貧困なアイディアしか生まれてこない危険性もあります。とにかく、若い人たちには、いろんなものに触れてほしい。そうやって、どんどん感性を磨いてほしい」
これは、そのまま関の編集哲学にも反映されている。なにより、関自身が“新しいもの”に対しては貪欲なのだ。たとえば新年号のニューカマー特集。これは新しい才能200人を一気に紹介するというもので、いまや『装苑』の名物企画となっている。もちろんファッション業界だけでなく、今後活躍が見込まれる新人であれば、どんなジャンルの才能であっても必ず取り上げられる。
「新人を探し出すのは本当に楽しい。紹介する以上、大きく羽ばたいて……という気持ちでいっぱいです。メディアが、才能ある若い人を応援するのは当然じゃないでしょうか。」

関はエディトリアル・ディレクターとして『装苑』と『ミセス』双方に関わっている。『装苑』は創刊70周年を迎えてもなお若々しく、進取の気性に富んだ雑誌だ。一方、『ミセス』創刊は1961年(昭和36年)。2011年には創刊50周年を迎えることになる。こちらも、創刊当時のコンセプトを受け継ぎ、富裕層の女性に向けた“ハイエンドマガジン”であることには変わりない。
「『ミセス』は、創刊時の編集長だった今井田勲さんと、アートディレクターの江島任さん、このお二人がつくり上げた雑誌だと思っています。いま改めて60・70年代の『ミセス』をみると、そうそうたる人たちが関わっています。一見すると、女性誌の王道を目指しているようにも見えますが、料理の『雲月』であったり、きものの『浦野理一』など、実際は主流から外れたものや先鋭的なものも積極的に取り上げ、新しい価値観や美意識を提示している。こうした方向性を復活させたいと思ったんですね」
たとえば、かつての『ミセス』では、巻頭ページで作家や画家による書が掲げられていた。読者は、草野心平、中川一政、津田青楓、奥村土牛など、一流の書に触れることができたのだ。あるいは、三岸節子や猪熊弦一郎の作品や、幸田文、白州正子などの随想も掲載されている。
『ミセス』の読者層は50代から60代が中心。そうした年代の女性たちは、雑誌に何を求めているのか。関は紋切り型の発想から脱却したいと考えている。
「たとえば、読者の方々が美術展に足を運ぶとします。そのとき『印象派の絵画もいいけれど、コンテンポラリーアートも魅力があるんですよ』という誌面づくりをしたんです。固定観念に縛られず、自分が感動したもの、すばらしいと思ったものは、たぶん読者も共感してくださるだろう、そんな思いがありましたから」


『ミセス』誌上には、衣食住にまつわる記事だけでなく、安藤忠雄の建築やジオ・ポンティの家具、アレキサンダー・カルダーのモビール彫刻やアーサー・ビナードの詩など、従来の女性誌には見られない企画が並ぶことになった。これは読者のレベルを低く見積もっていない。むしろ、読者の知的水準に訴えかける内容となっている。
編集者にとって重要なものは何か-関にそう尋ねたら、即座に挙げたのが「ワーマンの10の教え」だった。コミュニケーション・デザインのスペシャリスト、リチャード・ソール・ワーマンが「情報を理解する/させるとはどういうことか」を示した格言集だ。たとえばワーマンは「情報をクリエイティブに組み替えれば、そこにまた新しい情報が生まれる」と指摘している。この言葉は『装苑』誌上で、滝沢直己がデザインした衣服を森山大道に、あるいは草間彌生の作品を蜷川実花に撮影させる企画が、なぜ新しかったのかの解説にもなっているだろう。そう、そこにはクリエイティブな組み替えがあったのだ。
「中でもいちばん好きなのは『情報デザインのゴールは、ユーザーの内に力を与えることである』という言葉です。雑誌づくりの目的も、読者に、高揚感や、未来への希望を与えることだと思っていますから。そのためには、編集者自身が、何に感動し、何を伝えたいのかという明確な強い意志を持っていないとダメだと思いますね」

![]()
1973年武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科芸能デザイン専攻学科
(現空間演出デザイン学科)卒業
'73年文化出版局入社。『装苑』編集をへて『装苑』副編集長、『ハイファッション』副編集長。2000 年より『装苑』編集長。
'03 年1月号より始めたファッションをはじめとするあらゆる分野の新人のクリエーションを紹介する「NEWCOMER」特集は恒例の企画に。'04 年5月草間彌生の「クサマトリックス」展(森美術館)のクロージングイベント「草間彌生の前衛ファッション・ショー」を文化服装学院の学生とともに制作、開催。
'05 年より『ミセス』編集長。'09年より『装苑』『ミセス』両誌のエディトリアル・ディレクターを、また、'10年4月より、ハイファッションを紙媒体からwebに移行させた high fashion ONLINE のエディトリアル・ディレクターを務めている。