研究名 伝統と越境―とどまる力と越え行く流れのインタラクション―
リーダー名 沼野 充義(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部・教授)
趣旨・概要

20世紀以降、芸術・文化の様々な局面で大きな変動が起こり、ジャンル間の境界、さらには伝統的な芸術と非芸術の境界さえも曖昧になっている。また交通手段・伝達の発達に伴って芸術・文化においてもグローバル化と多文化的傾向が顕著になっている。
しかし、その一方で、伝統的な文化そのものが活力を失ったわけでは決してなく、多文化的傾向に抗するような形で、伝統的・民族的なものが新たな力を獲得している事例も決して稀ではない。
つまり、現代社会においては、伝統的な文化の境界を守り、変動する世界の中であくまでもそこにアイデンティティの基礎を求め求めようする力と、そういった境界を超え、伝統的なものを他者にさらすことによって変容させることによって自己更新を求める流れという、一見相反する二つの力が複雑な相互作用を及ぼしあいながら、芸術・文化の発展のプロセスを展開していると考えられる。
このような状況を総合的に把握したうえで、言語・芸術・芸能表現の未来の可能性を探る作業には、従来の個別のディシプリンごとに孤立した研究体制では対応できない。様々なジャンルや研究領域の相互乗り入れを前提とし、さらに伝統を守る力と、伝統を革新・越境していく力の両方をつき合わせることが可能なプロジェクト方式によって初めて全体像に近づくことができるだろう。
この趣旨を踏まえて、本プロジェクトは以下の3つの研究グループを立ち上げる。

【自己表象の生成と変容】文化の境界の内部を構成する言わば「核」となるのは、その文化圏特有の芸術的手法によって表象された「自己」である。
越境と多文化】 現代における越境と多文化に焦点を当てる。
【伝統から創造へ】 現代世界における伝統的な芸能表現のあり方に焦点を当てる。

このようなグループ編成によるプロジェクト研究は、(1)文学・美術・音楽・演劇などの様々なジャンルを扱いながら相互に緊密な連携を保つことができ、(2)伝統と越境という相反する志向性を、総合的にその相互作用のうちにとらえることができるという点で、学術的意義が高いものと思われる。3つのグループは、「自己表象」を核としながら、それを守ろうとする「伝統」、その枠を越えていこうとする「越境」、という緊張を孕んだ有機的な関係にある。
本プロジェクトが直接扱うのは言語・芸術・芸能表現であるが、現代社会における個のアイデンティティ、伝統的なものの意義と革新、越境と多文化といったテーマは、そのまま現代社会が直面している最もアクチュアルな問題でもある。従って、本プロジェクトの展開は、必然的に芸術的表現の社会的機能の解明に結びつき、広い意味での「芸術と社会」という問題設定に新たな光を当てることになるものと期待される。

研究グループ名 自己表象の生成と変容
グループ長名 柏木 博(武蔵野美術大学造形学部教授)
研究の趣旨

今日、時代のグローバルな流動状況のなかで、「アイデンティティの危機」「自己喪失」と呼ばれる、<自己>表象(広く<主体>についての表象)の構築をめぐる問題がある。これは、アイデンティティの根を奪われた難民から、先進社会の都市化・情報化・高齢化を生きる人々にまで、ひとしく共有されている問題である。絶えざる自己変容を迫られる現代世界において、自己表象の構築・再構築の問題は、国家や学校教育および各自の倫理的言説(「人生論」)に任せるだけではすまされない、方法的な反省・検討を要する広汎かつ緊要な課題となっている。
そこで、自己表象の構築が意識的・方法的におこなわれたヴィジュアル作品(肖像画)・言語作品(伝記)等のなかに、自己表象のメカニズムの成立と変容をたどり、美術と文学が社会に提供してきた自己表象モデルとその問題性、およびこれと現代社会とのかかわり(連続・非連続)を解明し、さらに、自己表象問題についての専門諸分野のコラボレーションの可能性について検討する。
本研究は、人文知が、従来の倫理的自己論の境域を越え、新たな「自己表象論」「自己のテクノロジー」の領域を協働的に開拓するための研究開発としての学術的意義をもつ。