富永華苗Tominaga Kanae

作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など
作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など
作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など
作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など
作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など
作品写真:私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であった など

私が家へ転がりこんだとき、そこは知らない場所であったWhen I fall into the house, it was an unknown place

思考は空気が薄くなった地下で停止する(していた)The mind stopped at underground with thin air

それが炎に包まれている時、私は次の場所へ向かうWhile that is bursting in flames, I will move to next

人生の繰り返し、この線をこえようとしなくてもIt is a repetition of life, even you do not try to go over the line

思考は空気が薄くなった地下で停止するThe mind stops at underground with thin air

“ 正”の従順な出現It is right, and nobody can caught it

紙|リトグラフ、木版Paper | Lithograph, woodcutH950 × W750mm ×6点

言葉に対するズレ、歴史に対するズレ、様々なズレの中から自分はどこに属せるのか。
確固としたものを求め行き来をしていたら、イメージが構築され壊され元の意味から離れていきました。この表と裏全てが折り込まれ境界線がなくなったイメージたちは、版を通して紙に現れます。それは客観的に私の問いに答えをくれました。
まだそれを正直に飲み込むことはできません。でも、ちゃんとこのズレと向き合おうと思えました。

富永華苗

自身のアイデンティティを率直に表現しようとした現実感が、観る者に強い説得力を持って伝わる秀作である。いわゆる印刷媒体としてのリトグラフの性質を存分に活かし、その軽やかさを逆手に取ることによって、不確かな社会や人の存在についての問いかけを冷静に淡々と画面に忍ばせている。つまり、イメージの基はきわめて個人的なものでありながら、現代社会との関わりを提示する美術の潜在力を備えているのである。拠って、版画はそもそも市井のものであり、そうした認識からのアプローチが未だに同時代性を持っていることを明示する好例としてこの作品を高く評価した。

油絵学科教授 遠藤竜太

中村朝咲Nakamura Asaki

作品写真
作品写真

瞼の裏、
あるいは外側の風景The back of the eyelids or the outside of the landscape

インスタレーション|銅版画インク、雁皮紙、木パネル|ドライポイントInstallation art | Copperplate engraving ink, paper, wood panel | Drypoint

なぜここにいるのか、なぜ息を吸って吐いているのか、私は不思議でたまらない。
世界はいつもぼんやりしていて、確かなようで全然つかめない。
現れては見えなくなる。大きな流れに紛れていく。
瞼の裏に映る風景は、あるいは私の中にある風景であり、あるいは私を含んだ、どこまでも広がり続ける世界の風景、あるいはそのどちらでもあり、どちらでもない。
大きすぎて計り知れない、小さすぎて気づきもしない世界の中を、ただ漂うだけである。

中村朝咲

描かれているのは反復するパターンや、たとえば団地のような風景。あるいは“何か”のようなもの。何を描くのかが重要ではなく、自分も含めた世界の全てをどう描くのか、どう捉えるかということ。そのうえで、銅版画の被膜に覆われたパネルの厚みこそが、描かれたイメージを支持体という引力から逆説的に解放、純化している、というのが第一印象だ。中村朝咲はドライポイントという、至ってシンプルな技法で、しっかりと根を張りながら新たな地平を開拓しているかのように、ひたすら銅の表面を耕し続ける農夫のような制作を続けている。銅という大地に素手で立ち向かう勇気と潔さ、そして軽やかさ。ニードルで反復しながら刻まれた無数の傷は、目を閉じれば立ち現れる、瞼の裏の襞の中に感じる外側の風景に確実に繋がり、今までに見たことのない銅版画感を醸し出している。

油絵学科教授 高浜利也