田中美帆Tanaka Miho

作品写真:縁側
作品写真:縁側
作品写真:縁側

縁側engawa

赤御影石GraniteH910 × W1310 × D530mm

なんなのかは思い出せない、けどなくなるとあれってなる、そんな存在でありたい。

田中美帆

作品のオリジナリティーとは何だろうか。
造形性か、主題に対する表現力か、素材と対峙する固有の感覚か。しかしこの作品はそのどれにも当てはまらない、ただパラレルワールドに迷い込んだような空気がそこにある。あえて言えばいわゆる「石彫」の作品ではなく、何らかの目的を全うした結果生まれた未知の製品か。素材に頼った造形性に見切りをつけ、安易なミニマリズムにも同調しない手技の判断がこの空気を作り出しているのだろう。そしてこの徹底した「普通」の行為によって、この作品はある一線を越えた。

彫刻学科教授 伊藤誠

寺島千尋Terashima Chihiro

作品写真:立つ人/跡
作品写真:立つ人/跡

立つ人Standing Person

Camphor treeH1200 × W1600 × D1100mm

Trace

墨汁、綿、布、垂木、ベニヤ板Ink, cotton, cloth, rafter, plywoodH2000 × W900 × D150mm

さまざまな上手く言葉にできなものが絡み合って出来上がる空間と私。それを留めておきたいと思っても難しい。何か形にして残しておきたい。

寺島千尋

木材の塊を寄せ接いだ箱状の器が横になって力強く存在している。空洞を穿ったその内側に棒のような人が立っている。“人”は作者を拘束してきたテーマであるが、作者が感じたいと願ったのは、堅牢な外郭の内で人の発する儚い響きだろう。平らな痕跡は、時間を積み重ねて繰り返し印象されて、身体のひずんだ階調を無闇に奏でている。定まらない気分が、よそよそしい肉体を強引に引き寄せて、何かを断言しようとしている。

彫刻学科教授 黒川弘毅

宮嵜唯香Miyazaki Yunika

作品写真:諸行無常
作品写真:諸行無常
作品写真:諸行無常
作品写真:諸行無常

諸行無常All things pass away

インスタレーション|プロジェクター、ブラウン管テレビ、ミラーシート、ビデオカメラ、網、ジェッソ、ほかInstallation art | Projector, CRT television, mirror sheet, camera, net, gesso, other可変

「諸行無常」という言葉が古くからあるように、ありとあらゆるものは留まることなく常に移り変わっている、動き続けている。
そして、それを認識するきっかけは人によって様々だ。

宮嵜唯香

物事をどう感じ、見ているか。他者は何を思い、考え、そして感じているのだろうか。そして私は。その不可解さは計り知れない。

宮嵜はインド人の父親を持つ「ハーフ」であり日本に国籍がある。父親はヒンドゥー教徒であるが日本の習慣に親しみ、牛肉は好物であるらしい。彼女は幼少の頃から「ハーフ」である事を常に他者や社会から位置づけられてきたのだという。美術に出会う以前に「自分は何者であるのか?」という問いが常にあったのだろう。

プロジェクションするという行為は宮嵜とって必然的な手法であろう。投映する方もされる側もそれぞれを「半分」もしくは「分子」と捉えているからだ。それらは混じり合い、ある時はパラレルに進行し、ノイズやズレも取り込んでいく。宮嵜は混じり合う事で確かなアイデンティティとキャパシティを獲得し、「情報」と「表現」の二者をメタ化する事に成功したと言えるだろう。

彫刻学科教授 三沢厚彦

森本麻楠Morimoto Mana

作品写真:奇食図
作品写真:奇食図
作品写真:奇食図
作品写真:奇食図

奇食図Kishokuzu

FRP、木FRP, woodH1400 × W2750 × D300mm

仏教の幼稚園に通っていた頃に聞いた「天国と地獄の長い箸」という話をモチーフに制作しました。
死んでからも食べ物に苦しめられることもあれば幸せにもなれる、人間の食べ物に対しての強い執着がトラウマとして記憶に残りました。
この像達は幼少期のトラウマの像です。

森本麻楠

ここは天国だろうか地獄だろうか。
赤い木綿の糸で結ばれて浮遊している、天平彫刻を思わせるこの造形は、仏教説話の「天国」を一見忠実に再現している。ところがそのように見えないところがこの作品の真骨頂だろう。異なる皮膚をしたもう一人のメタリックに彩られた唇に異常に長い箸で食べさせているこの距離感。相手を見つめる眼差し。そして赤い紐で縛られ吊るされているのに気づくのだ。この一見穏やかな造形性は、相反する感情を喚起させ、判断を文字通りの宙吊りにさせてしまう場を出現させた。

彫刻学科教授 伊藤誠

矢萩理久Yahagi Riku

作品写真:衣裳のペルソナ

衣裳のペルソナ01persona of costume 01

セラミック、ブロンズ、フェルトCeramic, bronze, feltH1600 × W600 × D580mm

衣裳のペルソナ02persona of costume 02

セラミックCeramicH1600 × W2000 × D50mm

衣裳のペルソナ03persona of costume 03

セラミック、FRPCeramic, FRPH900 × W600 × D150mm

千利休は欠けた茶碗を美しいと言った。「人間は欠けた存在で、完璧などあり得ない。欠けた存在だからこそ愛おしい。」そのようなことから私は人間の進化を考えた。類人猿から人になる時、人類は体毛を失い、代わりに服を身に纏った。体毛があれば服を身に纏うことなどしない。いわば服は体毛の代用品である。服を身に纏うこの行為が私にはどうしても不完全で愛おしいのだ。本作はそんな不完全な私が思う服のペルソナである。

矢萩理久

「一枚」に関わる作品である。矢萩の本作にいたるまでの2年間は「陶/和/布」をテーマとして据え、文字通りその言葉を彫刻化することに終始した時間だったと言って過言ではない。断言すると、それは全くと言っていいほどに言葉に翻弄された、彫刻化しない時間であった。
本作は、誠実に向き合うだけでは取り付く島もないそんなテーマに矢萩が邪道な手段で一矢報いた快作である。布が土管として鈍重な姿を晒し(そこに異物―布そのものまでも―が当然の体で張り付く)、陶が端切れと化しケミカルブルーのガラスマットに侵食される(その姿はさながら「90年代日本の個性」ヤマンバギャルだ)。極め付けは、バキバキでペラペラの陶がFRPに矯正されて壁に張り付く2枚のレリーフ。布のイメージを通り越し、お代官様の悪巧みを透かし見る障子戸に見えてしまうのは私だけか。
本作は、矢萩が誠実さの果てに邪道へとヒールターンする陶への反抗声明である。その発端が陶の基本形態「たたら板」であったことに矢萩の表現への真実が隠されている。たかが一枚、されど一枚。表現の舞台では邪道こそ正道である。

彫刻学科准教授 冨井大裕