新見隆

新見隆(にいみ・りゅう)
NIIMI Ryu

専門
美術史、デザイン史、博物館学
Art History, Design History, and Museum Studies
所属
教養文化・学芸員課程
Humanities and Sciences / Museum Careers
職位
教授
Professor
略歴
1999年4月着任
1958年広島県生まれ
慶応義塾大学文学部 フランス文学科卒業(学士)
研究テーマ
近・現代デザイン史・美術史、現代芸術論、アート/デザイン・マネージメントを含んだニュー・ミュゼオロジー。ジャポニズムを端緒とした比較空間、空間感覚学から、美術・デザイン・建築の影響史、受容史、比較文化史、芸術社会学まで。

フリーランス・キュレーター。ミュージアム&アート・コンサルタント。
専門は、近・現代美術、デザイン、建築、工芸。美術館学、アート・マネージメント。

セゾン美術館の学芸員として、展覧会企画を担当。主な企画展に、「日本の眼と空間」'90・'92・'94年、「バウハウス1919−1933」'95年、「イサム・ノグチと北大路魯山人」'96年、「デ・ステイル1917−1932」'97年、「柳宗理のデザイン」'98年など。
「現代日本デザイン展」国際交流基金主催・ソウル国立現代美術館 '94年、「その日に、5年後、77年後―震災・記憶・芸術」川崎市岡本太郎美術館 '00年、「表層を超えて―日本的ものづくりの手法」国際交流基金主催・シンガポール美術館・マニラアートセンター '03年のゲスト・キュレーター、コミッショナー。
イサム・ノグチ庭園美術館学芸顧問。慶應義塾アート・センター訪問所員。家具道具室内史学会理事。ギャラリー册、アート・ビオトープ那須、顧問・キュレーター。
「ウィーン工房 1903-1932 モダニズムの装飾的精神展」パナソニック汐留ミュージアム '11年の企画監修によって、第7回西洋美術振興財団賞「学術賞」を受賞。
元大分県立美術館館長(2013−2019、2019−2020(3月)は、顧問の後、大分県地域アート活動エグゼクティブアドバイザー)。

主著に、『空間のジャポニズム―建築・インテリアにおける日本趣味』(INAX、1992年)、『モダニズムの庭園・建築をめぐる断章』(淡交社、2000年)、『キュレータ―の極上芸術案内』(武蔵野美術大学出版局、2015年)。『モダニズムの庭園・建築をめぐる断章』(淡交社、1999年)、『イサム・ノグチ 庭の芸術への旅』(武蔵野美術大学出版局、2018年)、『もっと知りたいイサム・ノグチ 生涯と作品』(東京美術、2021年)など。
食のスケッチ、箱、人形の作家。アートビオトープ那須でコラージュ・ワークショップなどを行う。

過去、五年間の、主な研究業績

著作
『イサム・ノグチ 庭の芸術への旅』(武蔵野美術大学出版局、2018年)
『もっと知りたいイサム・ノグチ 生涯と作品』(東京美術、2021年)
『時を超える美術―グローカル・アートの旅』(光文社新書、2022年)
『青春20世紀美術講座-激動の世界史が生んだ冒険をめぐる15のレッスン』(東京美術、2022年)

論文
「プロジェクト・フォー・サヴァイヴァル-アートマネージメントの根源的欲望のために」『アートマネージメントを学ぶ』(武蔵野美術大学出版局、2018年)


as of April 14, 2021

真のプロフェッショナルなキュレーターになる、
博物館学芸員課程履修生のための、
「博物館教育論」。

明日のための、その0。

「 Ex-Stasis !
芸術だけが、社会を救えるのだ!」

“ EX-STASIS !
origin of Ecstasy,
art can only save our society ! ”

明日のための、そのゼロ。

[ 社会的動物の「抑圧」 ]
昔学科に属していた頃、よく高校生に話す機会があった。
 彼らに「普段生活してて、やってられないな! と思う人、素直に手を挙げて」、と言うと、ほぼ全員が挙げた。
 それが当り前なんである。
 子供の頃から「こうしろ、ああしろ」、親、教員、友だち、社会から言われて育って来た。社会は、人間に、規範、因襲、慣例を押しつける。仕方ない、人間は社会的動物、「抑圧」を受けるのは宿命でもある。いくら自由で気持ち良くても、裸で外を歩くと逮捕される。
 つまり「抑圧」を受けた人間は、必然的に「血が澱む」。これが「やってられない」の直接の原因で、どうやらヨーロッパでも古代ローマの昔からあったようで(むろん、ギリシャでもたぶん)、彼らは「Stasis=血の澱み」とラテン語で称して問題視していたようだ。(註1)

「アートっていったい何?」芸術の意味は? 本質は?
 この質問は最も本質的で、美大でモノづくりをやっている皆さんには生涯かけて考えて欲しいテーマだが、それには仮に百万通りの解答があるとして、その一つを今日、皆と考えたい。
 「アートは、この澱み、つまりStasisの外へ出る=Ex !こと、つまり、Ex-Stasis」
 である。
 今日の第一のテーマがこれ。
 だから、ミュージアムも、Ecstasyの場じゃないと、ならないのだ。
 かつて僕も、県立美術館を率いた時、こう叫んだことすらある。
 「エクスタシーくれなくて、何がミュージアムだ!」
 英語のEcstasy、の語源が、このラテン語、Ex-Stasisにあることはもう、言を待たないだろうが、エクスタシーとは生の高揚、「ああ、生きてるなあ! 今日は何だか身体が踊るようだ、気持ちいい!」というような、自然や宇宙と一体となった充実感のことだ。それが、「澱み=Stasis」の「外へ出る=Ex」ことなのだ。

[ 美術(アート)の自由 ]
 小学校以来、お勉強を続けて来て分かると思うが、「ルールやマニュアルを遵守して、ステップバイステップでやって行かないとならない」のが、お勉強だ。
 手前勝手に、自由に出来ない。
 そういう他の科目と絶対に違うのが、美術であって、本来このお勉強には、ルールやマニュアルは無い。
 いくら個性重視と言っても日本では嵩が知れている。社会の中で「人と同じようになる」ように教育された習性が染み付いている。だから「常に周囲を気にし、除け者、仲間外れにされないように心を砕く」。
 だが、美術だけは、「あれ、この子、変な事やっているよ! 面白い! 見て見て!」と、逆に褒められる。そういう、起きそうで起きない事が実際に起きてしまう、唯一無二の科目なのだ。
 極端に言うと、美術は何をどうやっても良い。人に迷惑かけたり、困らせたり、傷つけたりしない限り、何やっても良いのである。
 「何だか、味気ないからこの教室を皆で真っ赤に塗り替えよう!」とか、近所の人たちを楽しませる為に、「風船を千個上げよう!」とか、何でも有りなのである。
 それは、美術の根幹にある、本質的性格、「自由」に由来するからだ。

[ How do you want to live ? ]
 自由には責任がある、などと砂を噛むような事は言わない。
 だが、「何やっても良いよ!」と言われて、「ああしろ、こうしろ」と何も言われないのなら、次に直面するのは、こうなる。
 「何がやりたいの?」

この質問の前に、人は投げ出される。

大変な事である。

何故なら、この質問の背後には、膨大なる質問、深淵で重大なる質問群が控えているからだ。
 「次は、何をつくりたい? どうしたいの? 君は何が欲しいの。モノなの、人なの? 自分なの? 社会なの? 何が幸せなの? どういう仕事がしたいの? 何をやりたいの? 人を愛したいの? 結婚したいの、したくないの? 家庭を持ちたいの、持ちたくないの? 子供は? 人生は? どう生きたいの?、、、そして、どう死にたいの?」

かかる人生の難問疑問が、一挙に押し寄せて来るからだ。

 「たかが、一枚の絵描くのに、そんなご託要るの? ただ、楽しく描けば良いんじゃないの?」

 こう思う君がもしも居る(居ないと信じるが)なら、君はまだまだ愚か者で、暴論を覚悟で言うとすると、このままでは、とうていマトモな絵は描けない人かも知れないなあ。

 こう言い換えても良いだろう。
 「一枚の絵を描く自由とは、かかる全人生を賭けた疑問なくば、とうてい完遂されるものではない。一枚の絵は、全宇宙の重みに耐えるものでなくば、ならない。」
 まあ、僕は、芸術至上主義者であって、斯く考え、信じる者なのであります。

[ 「人類は、必ず、滅亡する」のか? ]
[ 二人の友、アーティストとは何か?美術とは何か? ]

 最後の本題、上記の二つの事柄については、授業で話した通り。資料を添付しました。
(註1)

この所謂スタシス説(以下の、エクスタシー語源やら含めすべて)は、僕の大学時代の畏友、文化活動家、熊倉敬聡の説の受け売り。熊倉敬聡(practica 1『セルフ・エデュケーション時代』、2001)

書影以外の写真について
photo:佐治康生