奧健夫

奧健夫(おく・たけお)
OKU Takeo

専門
美術史
History of Art
所属
美学美術史
History of Art and Design
職位
教授
Professor
略歴
2023年4月着任
1964年東京都生まれ
東京大学大学院人文科学研究科美術史学専攻修士課程修了
博士(文学)
研究テーマ
日本彫刻史(前近代、特に平安~鎌倉時代)

研究業績

[著作]

  • 『仏教彫像の制作と受容―平安時代を中心に―』(中央公論美術出版、2019年6月 第1回國華賞)
  • 『清凉寺釈迦如来像』(「日本の美術」No.513 至文堂、2009年2月)
  • 『奈良の鎌倉時代彫刻』(「日本の美術」No.536 ぎょうせい、2011年1月)
  • 『国宝蟹満寺釈迦如来像―古代大型金銅仏を読み解く』(共編・分担執筆、八木書店、2011年12月)
  • 『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代造像銘記篇(第9巻より共編・分担執筆、中央公論美術出版、2013年3月~継続中)

[論文]

  • 「東寺伝聖僧文殊像をめぐって」(『美術史』第134号、美術史学会、1993年3月)
  • 「寿福寺銅造薬師如来像(鶴岡八幡宮伝来)について」(『三浦古文化』第53号、三浦古文化研究会、1993年12月)
  • 「東大寺西大門勅額付属の八天王像について」(『南都仏教』第81号、南都仏教研究会、2002年2月)
  • 「東大寺法華堂八角二重壇小考」(『仏教芸術』306号、毎日新聞社、2009年9月)
  • 「一日造立仏の再検討」(『有賀祥隆先生古希記念 論集・東洋日本美術史と現場』、竹林舎、2012年5月)
  • 「奈良・西方寺薬師如来像について」『仏教芸術』335号、毎日新聞社、2014年7月「失われた閻魔王像をめぐって」(『鎌倉』118 2015年1月)
  • 「東大寺法華堂諸尊像の再検討」(『東大寺の新研究』Ⅰ 東大寺の歴史と考古、法蔵館、2016年4月)
  • 「曹源寺十二神将像小考」(『MUSEUM』第668号、東京国立博物館、2018年6月)
  • 「鳳凰堂内の空間構成」(『鳳翔学叢』第17輯、平等院、2021年3月)

研究概要

1.行政機関所属の研究者として行った基礎研究
彫刻史は日本美術史の中で、作品研究の積み重ねにより編年や地域的あるいは流派的特色などの解明が最も進んでいる分野である。それは古代~中世の作例が豊富に遺され、基準作例つまり制作時期や作者を特定できる作例に恵まれていることによる。その基盤となるのが作品記述であり、彫刻史研究においては作品の形状、品質構造、保存状態を記述する形式が整備されている。それは古社寺保存法の制定の頃以来、主として国宝・重要文化財の指定および保存修理の作業に付随して発達してきたものである。
私の研究はこのような先人たちにより作り上げられた研究基盤の恩恵に多分に浴している。平成3年に文化庁に着任して以来、業務として指定や修理に携わった数多くの作品について制作年代や造立事情、構造技法上の特色などを明らかにし、彫刻史上における意義を提示する基礎研究を三十年にわたりおこなった。そこでは諸先輩の積み重ねてきた成果に連なりながら、その内容を拡充し発展させることに努めてきた。
指定は研究により一定の評価がなされた作品が対象となることが多いが、突然出現して保管環境や保存状態により緊急的な保護が必要なためすぐに指定しなければならないこともまま起こる。既に手が付いている作品についても指定に伴う調査研究により新たな知見が得られ、評価の内容に修正が加えられるケースが意外に多い。さらに研究状況を見渡してそこに公正な判断を下す作業も重要である。すなわち定説化したとみえる状況が実は停滞あるいは膠着状態によるものであったり、他分野の研究成果と突き合わせることで覆る可能性に気をつけなければならない。こうした点に留意しながら行う指定作業は彫刻史研究に基準点を提示する役割を担っている。
指定や修理に関連して行った研究をいくつか挙げると、奈良県西方寺の薬師如来像について納入文書の検討により文献上知られる一日造立仏すなわち制作を一日の内に完了する造仏による遺品であることを明らかにし、弘安元年(1278)に興福寺食堂で疫癘消除を願い三千人衆徒の請により造られたと記録にみえる像にあたることを突き止め、併せて一日造立儀礼の性格について論じた(「一日造立仏の再検討」「奈良・西方寺薬師如来立像について」)。また神奈川県曹源寺の十二神将像について建久3年(1192)の源実朝出生と関わりで造られた可能性を提示し、出生時刻である巳時の守護神である巳神像の形姿に実朝の将来のあるべき姿としての理想の武将像イメージの投映を認めた(「曹源寺十二神将像小考」)。修理では東大寺法華堂の八角二重壇の下段床面に台座痕跡を発見したことから、下段に七体の塑像(伝日光月光、四天王(現所在戒壇堂)、執金剛神)が並べ安置されていた可能性が高いことを明らかにし、法華堂の創建と諸像の造立経過やそれらの図像的典拠について論じた(「東大寺法華堂八角二重壇小考」「東大寺法華堂諸尊像の再検討」)。

2.日本彫刻史の捉え直しに向けて
前述したような整備された作品記述の形式は彫刻史研究を支えてきたが、一方でその弊害を指摘する声もある。よく聞くのは即物的な記述に終始して次の展開がないという批判である。実際、定められたフォーマットに従ってひと通りの記述を行うとそれで作品が判ったような気になり、さらにいえば研究をしたような気になる危険が確かに存在する。形式を考案した先人はその限界を認識していても、後に続く者は出来上がった世界に満足してしまいがちである。
彫刻史研究がよくも悪くもできあがった世界で、そのぶん外部に対して閉じているということについては、研究者として歩み始めた当初から漠然とではあるが問題を感じていた。修士論文では聖僧像を扱い、布薩儀礼における役割を論じることで像の社会における機能という視点を示し、従来の研究の定型からやや踏み出してみた。しかし問題意識が明確に形成されたのは就職して見聞が拡がってからである。とりわけ修理現場において数多くの修理物件について、像が制作される工程および損傷し修理を繰り返して今日まで伝えられてきた痕跡を目の当りにしてきたことは大きかった。仏像の歴史とは造られる歴史のみではなくそれが伝えられる歴史でもあり、両者は一体のものとして捉えられなければならない。
「時代様式の自律的展開」みたいな言い方がなされる時、そこには既に存在する像のことは考慮から外されている。両者の造形がかけ離れている場合には先行作例が「影響を与えなかった」とみなされることにもなる。しかし両者が無関係であるはずはない。仏像の機能という観点でいえばむしろ、それらにはそれぞれ異なった役割が与えられていたと考えるべきである。12世紀は日本の歴史の中で最も仏像が盛んに造られたとみられる時期であり、現存するこの時期の作例は画一化された穏やかで優美な造形を示している。一方でこの頃には各地に形成された霊験寺院への参詣が隆盛化し、それらの本尊は「生身(しょうじん)」とされ一種の人格化された存在として信仰を受けていた。仏像の拝まれ力を発揮する役割はもっぱらそれらが引き受け、当代に造られる像は造仏写経の功徳の喧伝による作善(さぜん)の産物としての性格を与えられていたのだった。
日本に伝わる鎌倉時代以前の彫刻は、国により国宝・重要文化財に指定されているものに限っても約2500件で、これは群像も1件と数えての数字である。未指定のものを含めるとその数十倍は存在するだろう。その大半が木造であること、また日本が自然災害の比較的多い国で、現存する古彫刻が造られた当初安置されていた建物のほとんどが失われていることを考えると、それらが自然に遺ったのではなく、遺そうとする強い意志により遺されてきたことは疑いない。
夥しい仏像を遺してきた原動力となったのは、各時代の人たちが像の中に感じたであろう理性では解釈できない得体の知れない力―呪力―である。今日の私たちも何かの拍子にそれを感じることがあるだろう。私自身の体験でいえば2000年5月、京都府寂光院の地蔵菩薩像が火災に遭ったとの報を受けて昼前に現地に到着し、屋根の焼け落ちた本堂に2メートルを超える大きな像がすっかり焼け焦げた姿で、高く昇った陽の光を浴びて立っているのを見上げた時がそうだった。大げさにいえば礼拝用彫像の本質をみる思いがしたものである。
このような礼拝彫像に対して抱く原初的な感覚の存在を念頭に置いたうえで、それが各時代や地域の社会・文化を反映し、時には強調されて民衆教化の道具とされ、あるいは逆に感じられにくいものとなりながら、仏像が造られ、拝まれ続ける現象の基底に絶えず流れている、という構図を想定することで、従来とは異なった彫刻史の語り方ができるのではないか。そのような見通しをもちながら発表してきた論文をまとめた『仏教彫像の制作と受容―平安時代を中心に―』を2019年に上梓した。そこでは模刻、像内への物品納入、寺院における像の機能などの切り口により、さまざまな時代や地域、共同体において仏像にいかなる役割が求められたかについて論じている。