本宮陽子さんは1990年に本学視覚伝達デザイン学科を卒業、就職し、その後School of Visual Arts(NY, USA)でFine Arts の修士号を取得、今はPratt Institute(NY, USA)で教鞭をとっています。

倉富二達広さんは2010年8月から1年間、Pratt Institute(NY, USA)に協定留学をしました。本学では油絵学科所属ですが、Prattではcommunication designを中心に勉強してきました。

二人の共通点は、ムサビとPratt、Fine artsとDesign、という二つの分野を知ることで自分の世界を大きく広げたことといえます。ムサビから遠く離れたNYで出会えた二人、色々な意味で先輩になる本宮さんに、倉富二さんが留学やお仕事についてお話を伺ってみました。

1
きっかけ

倉富二さん

まず、留学の目的は?

本宮さん

目的は、自分、個人のための作品を作る時間と機会を得たかったということですね。留学を考えた当時は広告代理店におりましたし、ムサビでは視覚伝達デザイン学科でしたので、グループ作業、共同制作的なところが、デザインには意外にあると実感していました。広告は本当に全てがグループ作業ですから、それはすごく楽しくて良かったし、自分では向いているかなとも思っていました。

広告代理店での最初の1、2年はまだ本当に駆け出しだから、アシスタント・グラフィックデザイナーだったり、ディレクターの下について、グラフィックデザイナーとして制作していたのですが、3年目4年目で慣れてきて景気も良かったせいもあると思うのですが、まだ駆け出しだけれど、アートディレクターみたいに自分がメインでお仕事させていただけるようになったり、制作するようになってきました。そうすると、クライアント企業のお金を頂いて、自分の中で妥協もしつつ、作りたいものをその商品のために作るという美しさというか、仕事の特徴が見えてきたのですよね。
そこで逆に、自分だけが作りたいと思うものを、自分が見たいから作るっていうことを20代のうちにもっと体験したいと思うようになりました。だから、ちょっと時期的なものもあって、やっぱりそう思えるうちにやらないと、もうこんな風に思ったり、怖くてできなくなってしまうかもしれないと。多分、日本にいたらなかなかできないかもしれないし、ずっと海外で生活してみたかったので、そういうことにトライしようと。

倉富二さん

差支えなければ会社のお名前を?

本宮さん

「JR東日本企画」です。JR東日本の系列の広告代理店でした。でもJR東日本だけでなく、結構他の企業の広告なども作っているところですが、私のいたクリエイティブのチームは、基本的には、JR東日本をメインにしていましたので、私は、JR東日本のスキーの広告や、東京の中での小さな旅という企画関係の広告を作っていました。

2
準備

倉富二さん

留学準備の開始時期は一年前とのことですが、何をどう始めたか、覚えてらっしゃいますか。

本宮さん

学校のリサーチと英語の勉強ですね。私が留学準備をした頃は、インターネットはなかったですし、当然Eメールもありません。なので、『美術手帖』の後ろの方に学校案内などの特集があれば見たりなどで、基本的に印刷物が主体のリサーチでしたね。それこそムサビの図書館とか本屋さんに行って、アメリカの学校案内などを見て調べたり、お手紙を書いてパンフレットや学校案内を送っていただいたり。そういう資料集めですね。

倉富二さん

アプライ(応募)したのは、SVAだけですか?

本宮さん

そのときアプライしたのは、そうですね、SVAだけですね。

倉富二さん

他にも候補は何校かあって?

本宮さん

その頃は、日本でのPrattは建築とかやっぱりIDで有名だったですね。Prattの名前ももちろん調べていたのですが、まだちょっとPrattのあるブルックリンは、「遠いかな」って当時思っていました。ゼロから1人で住むのに、「ブルックリンかあ」って、「マンハッタンの方がいい気がするなあ」っていう、そういう非常にミーハーな考えで、それでPrattはリストの後ろの方になって。となると、SVAとあとParsons The New School for Designですよね。今思えば、Hunterや、NYUもありますが。あとは、学費のこと、それと私の場合は、自分の中でシルクスクリーンをメインで勉強したいと思っていましたので、SVAが予算的にもロケーション的にもいいかと思いました。

倉富二さん

ニューヨークっていうのは決めていらっしゃったんですか。

本宮さん

決めていましたね。

倉富二さん

何か理由が?

本宮さん

ムサビ在学中に、シカゴに駐在していた伯父を訪ねて、シカゴ経由で、ニューヨークに一ヶ月くらい遊びに来ていたんですが、本当に楽しくて。シカゴも良かったのですが、車を運転しない私だと、いくら学校内の寮に住むとはいえいろいろ大変だろうし、東京育ちということを考えると、ニューヨークの方が東京的な感覚で生活できる、と色々想像した上で生活しやすいかなというのもありました。

3
英語の準備

倉富二さん

1994年から98年までの4年間留学期間と伺っていますが、内訳は?

本宮さん

最初は2年くらいの予定だったんですよ。当時、SVAが留学生のために少しオープンなコースを作っていて、これが、学部レべルのクラスを履修しながら、ESL(語学コース)もつける、という内容でした。私もそのコースに行き、そのあと、大学院の方に行くことになりました。

倉富二さん

留学時の語学レベルですが、当時TOEFL-PBTが650点くらいと聞いたのですが。

本宮さん

あまり覚えていないのですが、そのくらいだったかと思うんですけれど。

倉富二さん

英語学習の苦労話なんかがあったら。あと、勉強法と。

本宮さん

そうですね。本当に語学は、自分がこつこつやらないと伸びないです。語学の準備はしていたつもりでしたけれど、SVAのESL(語学コース)も、結局は取らざるを得なかったわけですし。こちらに来てからの方が、isolate(隔離)された状態で語学学習に集中できたというのはありました。でも、そのガッツがあって努力ができるなら、基本的には、どこででも出来ることなので、東京にいてももちろんできたと思います。ただ私の場合、仕事もあったので、なかなか日本にいる間にそういう時間をゆっくり取る余裕はなかったですね。

倉富二さん

仕事を辞めたのは、その留学する本当に直前・・・いつでしたっけ?

本宮さん

2ヶ月前位ですね。なので、結局私の場合は、こちらに実際来てから、より英語がブラッシュアップしたということです。

倉富二さん

英語関連で困ったことは?

本宮さん

やっぱり、会話が難しいということ、あとはライティングですよね。やはり講義のクラスとか。私の場合は幸いなことに学部は日本で卒業していましたので、そんなにアカデミックなクラスを取る必要はなかったです。それでも、major(専攻)が変わっていたので、視デの時のアートヒストリーの単位では足りなくて、additional(追加)で講義のクラスを取らなくてはいけなかったりしたので、paper(小論文)など最初は苦労しましたね。

4
SVAへの応募

倉富二さん

SVAに応募した時のことですが、応募書類がポートフォリオとアーティスト・ステイトメントと推薦状だったそうですが、推薦状はどなたに?

本宮さん

推薦状はですね、不幸中の幸いというか、こちらに来てから、ESLを取りながら、SVAのスタジオのクラスを先にとり始めていたんですね。なので、その時の先生にお願いしました。あと、こちらに来てから知り合った版画関係の方に書いていただきました。それから、当時SVAと関わりのある日本人のライターの方がいらして、その方にも英文でお願いしました。

倉富二さん

版画で応募されたそうですが、そのポートフォリオにはどういった作品を?

本宮さん

版画で応募したというか、私のメディア(媒体)は版画ですが、SVAのファインアートの場合は、とても小さいプログラムなので、ファインアートという大きな括りになっています。ですから、自分がそれはファインアートのメディアだと思えば、基本的には誰でもアプライできるんですね。パフォーマンスアートでもビデオでも写真でもその専門のgraduate(大学院)は別にあるのですが、ストレートの写真をする人でも、自分はファインアートとしてやりたい、写真の大学院には行きたくない、っていう方で、こっちにアプライする方もいるんですよ。なので、もう全然ごちゃまぜで、それがSVAのファインアートの、graduateのおもしろいところ。だから、似ている人が一人もいないですよね。すごくいいばらつきで学生を取っていると思います。同じ学科とは思えないような人が隣り合わせにStudioを持っていたり。内情を言えばそんな感じでした。
自分のポートフォリオの作品ですが、日本で働いている片手間にシルクスクリーンを本当にゆっくりですけど続けていました。当時はまだインスタレーションでは全然なかったんですけれど、でも版画だけではなくて、コラージュっぽく組み合わせたりとかして、結構大きい作品をその頃あったJACA展などに出したりしていました。そんな作品を入れたり、あとは渡米後にその大学院の準備期間に作っていた作品を入れたりしましたね。

倉富二さん

では、広告の仕事はポートフォリオには含まれていなかったと。

本宮さん

ええ。大学院に送るポートフォリオには入れなかったですね。

倉富二さん

当時留学生はどれくらいいましたか。

本宮さん

大学院の時は、4割くらいはいたと思いますね。

倉富二さん

人種でいうと?

本宮さん

人種は、結構いい具合に混ざっていました。SVAの大学院は、大体1学年で32、3人、マックスで34人くらいいて、私のときは32人くらいだったと思うんですけれど、留学生はヨーロッパの人が5、6人、韓国の方が一番多かったですね。韓国人の方が4人くらいで、私が日本人で、あと南米から来ている方が、アルゼンチンとブラジルだったかな、一人ずついたと思います。

本宮さんの作品

flow.1 (one of silkscreen print from the Portfolio "Flow")
シルクスクリーン / 46cm x 61cm

Hunting in Dub
インスタレーション(mixed media)

Plastic Note
インスタレーション(mixed media)

本宮さんのWebサイト