新見隆教授のコラム「企業美術館の夢いずこ」が日本経済新聞「プロムナード」に掲載

新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、7月12日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。


日本経済新聞 2024年7月12日(金)「プロムナード」掲載

企業美術館の夢いずこ
大学を出てすぐ、私は池袋にあった企業美術館の学芸員として社会人生活を始めた。1980年代半ば、今からほぼ40年も前になるか。口幅ったく言うならば、当時、今はないこの美術館が、日本の美術界の最先端、最前衛を走っていたと言ってよい。最先端という意味では国立をふくめて公立美術館は足元にも及ばなかっただろう、とひそかに自負している。
その美術館は、当時他のほとんどの美術館がやっていなかった20世紀の現代美術に特化して紹介した。私はやがてそこで、今まで誰も手を付けていなかった、デザインや建築の展覧会をやるようになった。「商品を見せて、金取るのか?」という今では、ばかばかしく聞こえる揶揄(やゆ)もあった。だが若い私には、当時やっと一般にも台頭して来た、デザインや建築に対する興味や人気の、「ドショッポネ(土性っ骨)」をつくってやろう、そのオリジナルの20世紀デザインや建築の本物のスピリットを日本に紹介してやろう、という気概に満ちていた。
その美術館が、他と隔絶していたのは、傑出した経営者で、しかも詩人・小説家でもあった、異色の企業文化人、堤清二さんが率いていたからだ。劇場、映画館、書店、出版社、もっといえば池袋や渋谷といった街全体、そういう場と人を総動員した、企業文化総合体であったことだ。
駆け出しの私は、その堤さんと畏敬する先輩たちに、徹底した薫陶を受けた。観客の入りなど問題にする上司は皆無だった。だが、「今、何故、この展覧会を打つのか?」という思想のない企画は、絶対にやらせない、と堤さんに厳命された。「時代精神の拠点」であれ、と企業文化体を立ち上げた人ならではの、気概だった。
一方でパブリックな美術館は、自ら企画を立てることはあまりない。新聞社やテレビ局などのメディアに主導されているとも言えるだろう。金の問題だけではない。意気盛んな学芸員や美術館も存在したのだが、それは本当にごく少数であった。
それは、本質的には今も変わらないと思える。コロナ禍を乗り越えて、美術館は深く成長し、練磨されたかというと、どうもそうではないらしい、というのが私見だ。入館数第一主義という、数の論理が幅を効かせ、やはり、メディアに頼って海外から大型展を持ってくる、という構造はいまもよく見られる。
企業美術館出身の私は、県立美術館の館長もやったが、ユニークな日本の美術館風土にも惹(ひ)かれる。だが、展望台を備えた美術館も、近代建築を丸ごと保存したような美術館もどうなのだろうか、一体日本の現代文化に、如何に寄与しているのか首を傾(かし)げたくなるのは私だけだろうか。
来秋、私は、新橋のパナソニック汐留美術館で行う、「ウィーン・スタイル」という、ウィーンの19世紀以来の、工芸やデザインを紹介する展観を準備している。パナソニックは、小さいスペースながら本社内に美術館を常設して、建築や工芸に特化したユニークな、味は濃いが広く分かりや易い展覧会を丁寧に打っている。ルオーのコレクションが見られるのも楽しい。こういう、身の丈に合った企業美術館がもっともっと東京に増えたらいいのに、と夢見る。
それが前回話した、「美術館が、豆腐屋と銭湯に追いつく」方策の一つだと、企業のトップに叫びたい。


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