新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、8月23日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年8月23日(金)「プロムナード」掲載
音楽への憧憬、古里の匂い
専門は造形美術やデザイン、建築、その批評や評論で、展覧会の企画がさらに本業だ。だが、私は本当は美術より、音楽の方が好きなのかもしれない。日がな一日、聴いているのはクラシックだ。
戦後の地方の、庶民一般の家庭には必須なもの、それが百科事典と蓄音機だったのじゃなかろうか。古里の広島・尾道で母は小さな洋裁店を営んでいた。私は母とその2階の一室で育った。プロレタリアートの極小住宅にもそれはあった。
三種の神器とは冷蔵庫とクーラーとテレヴィジョンだったのではない。戦後、精いっぱい教養を身に付け文化的な生活を送りたい、そう思った庶民は皆クラシック音楽に憧れた。私もまた自然にバッハ、ベートーヴェンやモーツァルトに親しんだ。ご飯を食べるのと、同じように親炙(しんしゃ)した。だからいちがいに、教養主義は馬鹿(ばか)にできない。だが、私は生涯やりたくないことが3つあり、いずれもルールに従わないとできない。曰(いわ)く、車の運転、楽器の演奏、そして料理だ。
古里尾道は、風光明媚(めいび)な港町。戦前から観光地として知られた。有名文化人も多い。「悩める青年」時任謙作。ご本人こと志賀直哉の旧宅あたりは、子供の頃からの遊び場だった。
川のように狭い、水道を挟んで向島が迫り、狭い街路は、そのまま千光寺という小さな山にかけあがる。渡船のエンジン音や、造船所の槌(つち)音が、カンカンと響く。まさに、掌に載せたミニチュアのような無類の景観がある。
「海が見えた。海が見える。(中略)私は涙があふれていた」とは大先輩、昭和の売れっ子作家、林芙美子だ。『放浪記』の冒頭「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」という殺し文句は、昭和の初め都市に出てきた私ども大衆の郷愁をかき立て、大ヒットして、映画にもなった。
亡くなった、映画監督の大林宣彦さんには可愛(かわ)いがってもらった。大林監督は映画会社に属さず、恬淡(てんたん)と自主映画をつくり続けた、真の映画作家だ。そして、シュルレアリズム風の幻想的映像の裏には、いつも平和へのメッセージが根づいていた。そのスピリットは偉大な漫画『沈黙の艦隊』をつくった、かわぐちかいじさんにも受け継がれている。広島人魂、だと感じる。
ルノアール風の風景で鳴らした独立美術の小林和作も晩年住んだし、和作の弟子で、下手ウマの純朴な抽象画をやった、亀山全吉もいる。私が教わったのは叙情的な作風の、早世した平松純平画伯だ。
「絵のまち」と知られ、画材屋や画廊喫茶も多く、小学校では絵が上手(うま)いのが、お勉強より何より自慢、元祖カルチャー・ツーリズム都市だ。
今は「ラーメンの町」で有名だが、美味(おい)しい海産には事欠かない。抜群の蒲鉾(かまぼこ)屋、幼馴染(なじみ)の芳子ちゃんがやっている「桂馬」も健在だ。
だが、私はクラシックを日がな一日聴きながら古里の町を勝手、気ままに散歩している。路地の奥の、井戸の匂いや、職人たちが桶(おけ)のタガをはめ、トタンを叩(たた)いていた、乾いた板場の香りもする。私にとって、西洋のはるか遠くのクラシック音楽は、子供の頃からの身近な、身辺を旅する唯一無二の、手段だ。時には、大好きなパリや、ウィーンの、見知った街角を歩くこともあるが。何しろ前世がパリジャン、その前が、ウィーンっ子だったのでね。
日本経済新聞|新見隆 音楽への憧憬、古里の匂い 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です