新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、9月6日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年9月6日(金)「プロムナード」掲載
デザイン隆盛の時代に
私はへそ曲がりの偏屈な人間で、世間で言うことを単純に鵜呑みに出来ないたちだ。
今や、デザイン隆盛の時代で、何でもかんでもデザイン言うと人は飛びつく。建築もそうだ。建築家ばかりが持て囃(はや)される。困ったものだ。日本はものづくりの国で、そういう表面上のカッコ良さが輸出振興の目玉にされる。
美大でも美術とデザインは違うのか、という議論がされるが、私は根はまったく同じものと教えている。では、デザインとは、一体何か?
畏敬した、その展覧会も私が企画した、戦後デザインの巨人に、柳宗理先生がいる。かの、民藝運動の創始者、駒場の日本民藝館の開祖、柳宗悦の息子であった。先生はよく、「デザイン、ていうのはね、世の中にゴミを生むから、一種の罪悪でもあるんだよ」とおっしゃった。環境や廃棄の問題も入れて、造形・生産・使用を、考えよ、という嗜(たしな)めだった。実際に先生は「どうしても必要なもの」に執心された。それこそ大きな橋やら、バス停の屋根やベンチ、高速道路の防音壁などだ。
二十年以上も前、偉大なファッションデザイナーの三宅一生さんと柳先生が、日本民藝館で対談され、司会を仰せつかった。その時、現在は世界中を席巻する、ある有名衣料品メーカーのTシャツの話しが出た。だが原材料も、そして何より、工場を中国やアジア諸国につくって、その国の人々を低賃金で使って、その結果の商品だと2人は話された。三宅さんは「日本の素材と職人、生産者を大事にしない」姿勢に、ある種の怒りを表されたし、普段元気いっぱいの、ヴァイタリティー溢れる柳先生の表情に、滅多にない曇りが翳(かげ)ったのを、私は忘れないだろう。
1993年秋、私はどうしても、20年あまり世界でも包括的にやられていない、バウハウスの展観の準備でベルリンのバウハウス資料館の館長室にいた。バウハウスとは第1次世界大戦後、貧しいドイツに登場した、画期的な総合芸術大学、美大の元祖である。目の前にハーン館長と、バウハウス研究の泰斗、ドロステさんがいた。
事前に私がファックスで送った、500点の出品希望リストを前に、ドロステさんが言う。「ニイミさん、日本人は世界でも最も繊細な文化を持った、国民ですよね。バウハウスというのは、本当に無骨な、ドイツ的なものづくりなんですよ。私はこれが、日本人に受け入れられるとは思えないんですがね」。そう静かに、窓から外を見ながら呟いた。私はこう答えた。
「日本では80年代のバブル経済で、やれデザインだとか、ものづくりが持て囃され、一挙に花開いた感があります。ですが、根の無い浮かれ方をしたデザインや建築、ものづくりの担い手たちは、方向性を見事に見失った。私が日本人に今、叩きつけたいのは、ものづくりの思想です。デザインとは、いかなる社会をつくるべきか、そういう思想があって、始めて成立するもの。貧しいながら、新しい民衆社会を志向した、バウハウス思想を日本に持って来たいのです」
しばらく黙っていた彼女は、こう言った。「わかりました。では、これらからは、ギャラリーや収蔵庫にある、すべての資料・作品をニイミさんが、お好きなように選んで持って行って、ください。全面的に協力いたします」
こうして前人未到、古今東西、有りえなかったバウハウス展が成った。
日本経済新聞|新見隆 デザイン隆盛の時代に 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です