新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、9月27日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年9月27日(金)「プロムナード」掲載
革命の精神とは
フランス革命の精神とは何か? と言うと、若い人は、笑うかポカンとするだろう。
実際、授業で、ミュージアムの起源には市民社会の成立が密接にかかわっているので、その話しをする。遠く離れたヨーロッパの250年前の出来事だ。若い彼らに実感がないのは仕方ない。だが、一体全体、それで良いのだろうか? と、私は自問する。
ミュージアムの学芸員人生で、世界中に師と呼ぶべき人はあまたいる。その一人に、パリ市の近代美術館や装飾美術館の主任学芸員を歴任した、大先輩、ダニエル・マルシッソーさんがいる。最後はすごく雅(みやび)なというか、ユニークな美術館であるパリ市のロマン派美術館の館長を務めて退任した。
モンマルトルの丘を上がって行くと、ピガールという有名な歓楽街がある。私は行ったことはないが、フレンチカンカンで有名な、ムーラン・ルージュがあるところだ。そのごくそばにある、瀟洒(しょうしゃ)なミュージアムだ。この辺りは、19世紀の文人や美術家の、いわば、郊外の静かな別荘街でもあって、当時としての、芸術家ヒッピー街? でもあったのである。世紀末象徴派の耽美(たんび)派画家、ギュスターヴ・モローの邸宅美術館もある。
日本では知られていないが、そこはアリー・シェーファーという、金持ちの画家の元邸宅だった。パリ郊外のノアンにあった、ショパンの愛人でパトロンでもあった小説家・ジョルジュ・サンドの居室も移されていて、ショパンのデス・マスクとデス・ハンドもある。このデス・ハンドは、見ものである。小さな手だがごつごつして、細い蜘蛛(くも)の足のようだ。ショパンは動乱の祖国ポーランドを出て生涯帰らなかった。パリ社交界の寵児(ちょうじ)であったが、そこに交わらずに恬淡(てんたん)と孤高の音楽の砦(とりで)を守った、あの韜晦(とうかい)・晦渋(かいじゅう)なる、ピアノ音楽を書いた。その彼の孤独の生涯がデス・ハンドを見たら一瞬にして理解できるようなものだ。ショパン・ファンなら、ペール・ラシェーズ墓地の花だらけ落書きだらけの墓石に参るより、ここに来るべきだと思う。
それはさておいて。師であるダニエルは執務室でいつも背広・ネクタイ姿。
思いあまって、ある時、聞いたことがある。「ダニエルよ。僕らの仕事は別に役所じゃあるまいし、背広・ネクタイは要らないだろ? 僕みたいにジーパン・Tシャツで来たらどうだ?」と。
「リュウちゃん。それは、駄目だよ。我々は、国家公務員、公僕だ。だから皆・平等。警備のおじさんは職務上、制服を強要されている。お掃除のおばさんも同じ。僕だけ好き勝手な格好で来るのは、我々フランス人の、平等の思想に反するんだぜ」
恐れ入りました。流石、市民の権利を勝ち取るために、王と王妃を断頭台に送った民だけのことはある。
最初にパリに行った1980年代の半ば、驚いたことがあった。地下鉄の優先席に、こう書いてある。記憶だが。
「ここは優先席である。その優先順位を以下に、書く。その一、国家を守る為に戦って、負傷した人。その二、お年寄り。その三、障害のある人。その四、妊娠しているお母さん、云々(うんぬん)かんぬん」
恐れ入った。これが市民社会を世界で初めてこの世に生んだ社会である、その責任と大義である、と。もはや、日本がどうこうとは、私は思いもしなかったものであった。
日本経済新聞|新見隆 革命の精神とは 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です