新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、12月6日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年12月6日(金)「プロムナード」掲載
ウィーンびいきの理由
何故かくも、私がウィーンにこだわるか、それを踏み込んで話そう。冗談で、前世がパリジャンだったし、その前がウィーンっ子だったのでね、と嘯(うそぶ)く。今時の何とかマップなど使わずとも、パリの街なら隅々まで、目隠しして歩ける。ウィーンも街路ごとに友人がいて声をかけられる。ニューヨークも同断だ。ミュージアムなどどの壁にどの絵がかかっているかは、目隠ししても分かる仕掛け。
日本人はヨーロッパといえば、まず真っ先に、花の都おパリがくる。観光でも、最大目的地だ。我が家のお女将も、最初に連れて行った二十数年前、「映画みたい! 素敵(すてき)、素敵、パリなのね!」を連発した。
美術にしたって「泰西名画」。モネにルノアールに、ロートレック。ゴッホに、ピカソに、やがてゴーギャンに、マチスか。19世紀の世界首都は、フランス革命を成した、市民社会「ベル・エポック」巴里(パリ)だ。
そして世界の工場と言われた、大英帝国の倫敦(ロンドン)だ。60年代のロンドン・ポップとパンク以降、一時期、燻(くす)んだボロい陽の落ちる都だったが、ここ20年余り都市改造に再開発、若者の活気に満ちている。
日本人はクラシック、西洋音楽を大ドイツの伝統、つまりバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンから学んできたため、その教養が幅を利かせている。ウィーン? 知らんなあ、東欧の古びた小さな、都か? 料理も美味(うま)そうでないし(この輩は素人だ、カフェやスイーツだけではない、シンプルだがキリッと美味い美味満載の土地だ)。
70年代、閑散とした似非(えせ)観光都市、ウィーンは、実際干からびた。奮起したのは、ミュージアム群であって、注目したのが、彼らの直近の文化的ルーツたる19世紀の「ウィーン世紀末」カルチャー。出開帳よろしく、世界中の美術館に出前した。黄金の装飾画家クリムトに、弟子で宿命の画家、エゴン・シーレ。ロマン派の最後、20世紀に抜け出た天才音楽家グスタフ・マーラー。20世紀精神分析のパイオニア、『夢判断』の、フロイトがいた。劇作家、文学者も、綺羅(きら)星の如く。
「性と死」「エロスと退廃」の坩堝(るつぼ)のような爛熟(らんじゅく)した文化が、東欧の一都市(実際は、東ヨーロッパを支配していたハプスブルク朝の首都だ)にあった。建築家やデザイナーの新しいモダンな生活革命もこの街から起こった。パリやロンドンを凌駕(りょうが)する勢いであった。
それはウィーンが人種の坩堝の都市だったから、そして端はロシアにまで達する東ヨーロッパ文化を受容してきたからだ。だから、面白い。複雑な問題はあるがユダヤの人々も多く文化にかかわる。
1873年のウィーン万博は、明治日本政府が初めて参加した。日本の美術や工芸に、ウィーンの美術家たちは熱狂し、大きな「ジャポニズム」(日本趣味熱)が起こる。金襴緞子(きんらんどんす)の着物姿など、表面的な影響ではない。深い、日本人の美意識自体に動かされたのが、ウィーンの文化だ。
有名な言葉がある。彼らは日本の美術を「神経的芸術」(従来の頭脳=古典主義でもない、肉体=浪漫主義でもない第3の芸術)と称賛した。
ウィーンに足を向けて、私は寝られない。来秋、パナソニック汐留美術館で、素敵・豪華・華麗なる「ウィーン・スタイル」展を企画・監修する。乞うご期待。
日本経済新聞|新見隆 ウィーンびいきの理由 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です