新見隆教授のコラム「芸術の心意気」が日本経済新聞「プロムナード」に掲載

新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、12月13日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。


日本経済新聞 2024年12月13日(金)「プロムナード」掲載

芸術の心意気

人生を勝ち負けで語ることほど、おそらく愚かなことはないだろう。だが、世上では「勝ち組」「負け組」などと下らない議論も耳にする。しかもほとんどが金に絡む。

尊敬するある芸術家は「世の中でよく幸か不幸かとか人は言うが、芸術があるのはそういう下らない価値観を人間が超えて行くためにあるんだ」と言っていた。

私はある意味極端に単純な人間であって、美術・芸術の本質は理屈で偉そうに語れるようなもんじゃなく、現代日本人の失った「心意気」=心、魂のあり方、と、粋=オシャレ、だと信じる者だ。

最近の現代アートは、やれコンセプトだの、やれポリティカルなんとかだの、情報操作の知的トリックだの、小難しくて、ついていけない部分がある。まあ、ついていく気などさらさら、ないんだが。

昭和、戦後の復興を担い世界に伍して成長しようという日本人が愛唱した名歌に「王将」がある。ご存じ大阪の将棋指し、坂田三吉を歌ったもの。不世出の天才歌手、村田秀雄の十八番(おはこ)であった。歌詞は西条八十。

実在の草履職人坂田は、歌どおり、無学ながら「将棋のムシ=鬼」となって日々三百六十五日、家族も顧みず研鑽(けんさん)に励んで、当時のトップ棋士である八段に挑んだ。

「明日は東京に出て行くからは なにがなんでも勝たねばならぬ 空に灯がつく通天閣に おれの闘志がまた燃える」

その坂田が新橋の停車場から降り立って、方々連れ回されたりしたら、今の東京をどう見るか?

「わしにゃあ、こんなハリボテの街は、何ともクダラんもんにしか見えへん。なんとかヒルズとかええカッコ言うてもなあ、ホンマにほんまの心意気、意気地が入っとらんならなあ、みな偽もんやで」

私はもう時代遅れの古典的な人間であって、美術・芸術も、いくらAI(人工知能)がどうの、デジタルがどうのと宣(のたま)うてもしょせん、畢竟(ひっきょう)、人間が生身の肉体を駆使して宇宙や自然と対決する勝負事でしかない、と信じる。

余談だが、この欄に私を招いてくれた記者は将棋の観戦記を担当しているらしい。私は将棋にはトント疎いが、若い頃には息子とよくやった。小さい頃はチェスもよくやった。子供はゲームや勝ち負けが好きだから、皆同じようなもんだろう。

チェスというと、面白い話がある。文学青年だった私を美術に導いたのが、20世紀美術の鬼才、コンセプチュアル・アートの元祖と今も崇(あが)められている、マルセル・デュシャンだった。この謎の美術家は晩年「美術はやめた」と伝えられ、もっぱらチェスの試合に日々、没頭した。世界チャンピオンと一戦を交えたこともある。

「AIが名人を超えた」と言われている将棋だが、いくらAIが発展しても真の意味で、名人(=技を極めたその道の達人)に勝つことはないだろうと思う。

それから私見だが、「ルールがある勝負事」であるチェスや将棋をネガとしてみると、それを裏返したポジ・フィルムが、「ルールを超えた勝負無しの宇宙」である美術・芸術になるのじゃないか、と思うことがある。美術・芸術は、肉体と五感による、本能予見の技であるからだ。

そのあたりは畏敬する小説家で、将棋に詳しい保坂和志に聞いてみたい気がする。


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