新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、8月16日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年8月16日(金)「プロムナード」掲載
学芸員的海外旅行
コロナ禍以来で久しぶりにこの春、ウィーンに行った。むろん生まれてこの方、観光旅行をしたことがない。40年余の美術館学芸員生活で仕事あるのみ、作品を調べる、借りて来る、展覧会をつくる、そのための出張旅行だ。
初めての出張は、ロシアでなく、ペレストロイカ以前のソ連だった。日本から、展覧会を持って行った。世間の人は飛行機というのは座席のある旅客機を想像するだろうが、私はペーペーの学芸員の頃から、カーゴ便、つまり貨物専用機に乗った(乗せられた)からそれをまず思う。作品に添乗するわけである。貨物便というのは、客席はない。コックピットの後ろに、パイロットの休憩するソファがあって、そこに座ったり、寝たりする。食事も勝手にギャレーから運んできて温めて食べる。楽チンだが、いかんせん窓がない。時々パイロットがコックピットに案内してくれるが、長居は出来ない。途中、ノボシビルスクで給油。空港での休憩時間は監禁室に入れられ、外から鍵がかかる。
着いたモスクワは、真夜中、国境警備隊がパスポートを一瞥(いちべつ)、国内線のホールに荷物ごと放り出された。グルジア(ジョージア)あたりに行く人々で溢(あふ)れ返っていて、皆、床やベンチに雑魚寝中。やっと探したタクシーでホテルに行ったが、ルーブルに両替していなく、運転手はドルを受け取るのを頑(かたく)なに拒否し、往生した。バレると監獄行きだからだ。
私の娘はこの初モスクワ滞在の3カ月の間に生まれた。 無限に楽しい、無類に危ない、ばかばかしい、愉快極まるいくつもある逸話のうち一つだけ紹介すると、文化省手配の英語の通訳が付いてくれたこと。ペテルブルグ育ちで、インテリ。美術にも詳しく、古本屋を回ってもらったり、ロシア美術館の収蔵庫で当時は政治的に公開禁止されていた、マレーヴィッチの原画80点を見る下交渉をもやってくれたりした。「なんだ、あるじゃないか!」、その瞬間は忘れられない。だが、最後に驚くなかれ、「亡命させてくれ!」と彼に哀願され、絶句した。結句、ことなきを得たがペレストロイカ以降に、彼に再会。「今は、どうなんだ?」と聞くと、日米企業から引っ張りダコで、あの時の話は、笑い話になった。
プラド美術館にベラスケスの大作「フェリペ4世像」を返しに行ったこともある。この時はエールフランスのカーゴ便に乗った。遠くのドゴール空港ではなく、ほんの郊外のオルリーであった。着くとすぐに、輸送用トラックに乗り換えて、出発。マシンガンで武装したインターポールの警備隊に護衛された。休憩はすべて警察署。彼らは昼から、ワインをがぶ飲み。「お前はやることないから」と、どんどん飲まされる。ボルドーの警察署内で、一泊した。バスク地方でかつてミロの絵画の輸送トラックが襲われて盗まれた事件があったからだ。
翌る日、スペインの国境警備隊に護送されてマドリッドのプラドに着いたのが、夜中の2時。若い女性の学芸員が2人して待っていて、収蔵庫で絵を点検し、問題無し。で、前のパラス・ホテルでシャワーを浴びて、ベッドにぶっ倒れたら、空は白んでいた。
初めてのマドリッドで私はプラドもピカソの「ゲルニカ」も見ずに、パリから着いた上司と翌日、フランクフルト経由のグルジア行きの飛行機に乗ったものであった。
嗚呼(ああ)、楽しかったなあ。
日本経済新聞|新見隆 学芸員的海外旅行 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です