新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、8月2日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年8月2日(金)「プロムナード」掲載
アートの本義
カトリック教会のミサで、老神父が「世界宗教会議というのがあって、その時に高名なお坊さまが講演されたが、その内容は、現代における宗教の存在意義は、社会をバカにすることである、というものだった」と、話された。つまり社会の通念・規範やら世間が言うことを、鵜呑(うの)みにするのではなく、疑ってかかり自分なりの見方や意見を持つことです、と説明が付いた。
私は授業で「それって、アートのことでもあるんじゃない? いやアートそのものだよね?」と学生に問う。
駆け出し学芸員時代、生意気盛りだった私を先輩は皆温かく、指導してくれた。有り難かった。活字の組み方、絵の並べ方、手取り足取りイロハを教えてくれた。現在はセゾン現代美術館名誉館長の難波英夫さんがある時、こう言う。「ニイミよ、美術家・作家っていうのは、何で作品を作っていると思う?」。即座に「美に対する憧れ、自己満足、その他云々(うんぬん)」と答えた。彼は「全部違うね。作家が作品を作るのは今の社会がこれでは駄目だ、と思うからだ」「世直しだ、社会改革だ」。そう喝破した。この言葉は、長く脳裏に残った。
その後、何とかかんとかキュレーターを40余年続けてきて、ますますそう思うようになった。亡き高橋巌先生の言を借りると、20世紀最大の神秘思想家にして、人間の感覚を高次に高める教育「人智学(じんちがく)」の開祖でもあったルドルフ・シュタイナーは「人間の根源疑問は2つ。自らの魂の奥底に何があるか知りたければ、世界の果てに行って人々がどう生きているかを見てこい。宇宙の果てがどうなっているかを知りたいなら、自ら魂の井戸の底の底まで降りて行って、何があるのか見てくることだ」と言ったという。
私はこの問題をめぐり、美術そのものが在る、と信じる。「優れた、最も優れた芸術とは、その時代の社会の底辺に悩み、苦しむ人々の気持ちを代弁する」ときく、シュタイナーの芸術観にも共鳴する。翻って「政治的メッセージ」をプロパガンダのように貼りつけた作品に、感心しないものを見かける。あくまで自由だが、ならば素直に政治家をやった方がマシだとも思う。
政治に無頓着でズボラ人間だが、読んで字の如く分かり易い「政治的スローガン」が、飾ってあるものに美術に成っていないものがある。女性の長い歴史上の圧迫や差別、性同一性障害などのジェンダー、障害や人種マイノリティー、環境保護、地球温暖化、経済格差……。心情や主張には賛同する。こういった普通に考えてまっとうな主張を「ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)」と言うこともあるが、ポリコレ的な傾向を含む仕事に「ちょっと、面白くない作品だねえ」などと言えば、怒鳴られかねない。だが、私は美術には、芸術としての絶対的な美的基準があって、それに合致しない、あるいはそのレヴェルに達していない作品を、優れた仕事とは認めない性(たち)だ。むろん美術・芸術には、絶対に保証されている自由があるので、その基準は銘々で違うし、違って良いわけだが。一見、見える形と色だけに限定して、美術とは見えるものでしかない、と言っているような作品が、また一方で今の社会を良し、と是認している訳であろうはずもない。何故なら、美術とは、見えるものを使って、見えないものを志向する芸術だからだ。
日本経済新聞|新見隆 アートの本義 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です