武蔵野美術大学入学式典

日時 2012年4月4日(水)10:00~
場所 武蔵野美術大学 体育館アリーナ

式次第

  • 開式の辞
  • 校歌斉唱
  • 学長式辞 学長 甲田洋二
  • 理事長祝辞 理事長 高井邦彦
  • 教員祝辞 教授 深澤直人
  • 卒業生代表祝辞 柳澤知明
  • 閉式の辞

会場風景

式典スタッフ

校歌斉唱 歌 志田陽子(教養文化研究室教授)/ 澤野誠人(学生生活課長)/ ジョ・ウットム(芸術文化学科学生)
特別出演 Funcussion
司会 加藤徹(教務課教務担当課長)
総合演出 楫 義明 / 米徳信一(芸術文化学科教授)
音楽制作 中路あけみ(lemo)/ 山屋俊彦
制作進行 相澤和広 / 森啓輔 / 内田阿紗子(芸術文化学科助手)
映像協力 篠原規行(映像学科教授)/ 山崎連基(映像学科助手)/ 大川夏来(芸術文化学科学生)/ 岡田和音(映像学科学生)/ 宗 俊宏(映像学科学生)
協力 武蔵野美術大学 美術館・図書館 / 映像学科 / 芸術文化学科学生有志
リーフレットデザイン 清水恒平(オフィスナイス)
照明 大串博文(株式会社アステック)
音響 久保昌一(株式会社放送サービスセンター)
映像 須賀 弘(株式会社教映社)
特効 石川真吾(有限会社酸京クラウド)
舞台 稲角光幸(有限会社アートセンター)
舞台監督 友井玄男

学長式辞

武蔵野美術大学学長 甲田洋二

新入生の皆さん、入学おめでとう。本日こうして造形学部、大学院修士課程、博士後期課程、また、各国からの留学生67名を含めて1,144名の新しい若人を迎えることは、武蔵野美術大学の全ての教員、職員の大きな喜びであります。また、ご臨席のご家族の方々に心からこの佳き日をお迎えなさったことに対してお祝いを申し上げます。

東日本大震災及び東京電力福島原発の事故が起きて一年になります。未だ過去形で語れない現状でございます。被災地の出身の皆さんと同時に、原発事故以降、東京の地に対して風評による漠然とした不安を抱きながら、この東京の武蔵野美術大学に入学を決断した皆さんに対して、心震える思いで感激しております。

本学の沿革は詳細にわたっては、自校教育としてオリエンテーションがあるかと思いますので、概略だけ皆さんのお耳に入れておきたいと思っております。本学は1929年(昭和4年)になりますが、世界恐慌の最中に現在の東京都武蔵野市吉祥寺に設立されました。当時の保守的で、形式的な官学美術教育に対して、在野精神を軸にして新鮮で清新な創造力のある美術家、デザイナーを養成しようとしてスタートしました。この在野という言葉は、若い諸君にとってはもう死語でありましょう。細かく説明いたしませんが、宿題として君たちに与えたいと思っております。今や日本は政治においても与党も野党も区別がつかないような状況でありますし、我々の世界においてもなかなか判別しにくいことであります。一言で言えば、権力に阿ず、自由闊達に自分の意志を通して造形活動をするという意味合いが入っているかと思います。この在野に関してはどうかしっかりとお調べ願いたいと思っております。本学も戦前から戦後を経て現在があるわけですが、特に戦後、諸々の混乱の中で校名を武蔵野美術学校として出発し、後に通信教育、短大を設立し、4年制大学へと発展して参りました。1つのキーになるのは、1962年(昭和37年)になります。この地、小平市小川町に新校地を開きまして、現在に至っております。従って、本年で創立84年になろうかと思います。武蔵野美術大学は3年前、80周年記念を迎え、その記念事業として出来た施設があります。それ等を一年生から充分に使えるという、君たちは幸せだと思っております。新しい美術館・図書館、ちょっと前になりますが、2号館の主に美術系の彫刻の工房、それからアトリエ等が開かれ、フル回転しております。君たちにとっては特に美術館・図書館に関しては大いに利用していただきたいと思っております。武蔵野美術大学の現在は80周年記念事業を一応クリアいたしまして、今後に向かって発展していきたいと思っております。今後君たちが目にするであろう、キャンパスの北側、今のグランドの部分から北の方に工芸工業の工房を中心としてスタジオ、講義室等の建設に入ります。そのことにより、デザイン系の大いなる充実と発展を願っている次第です。

さて、この大震災によって、様々な形でいろんな人がそれぞれの距離感を持って体験し、今後も続いてゆくわけです。これによってはっきりと見えてきたことの一つとして、自然と人間との関係を以前よりも更に深く厳しく問い直す必要がであろうかと捉えております。自然への畏敬の念も含めて、自然に対して実際に我々が突き付けられた一つの現実はやはりそこに行き着くのではないかと思っております。大きく言えば環境の問題でありましょう。この情報化時代の世界は大変近くなりました。同時に近くなるが故にそれぞれの民族、宗教、経済力等々によっての価値観の違いが歴然としてきております。埋めようもない溝もはっきり見えております。しかし、50年先の地球環境をどうすべきか、各々が真摯に考えてゆくことにより、微かに民族の連帯そして価値の共有が図れるのではないかと思っております。

そういう意味で、今日入学してきた若い諸君にこのことを敢えて申し上げたいと思います。本学の造形教育というのはつまり物を作るということが主体になります。近年の初等中等教育における美術の時間が大変少なくなってきております。君たちはそのなかを育ってきたのです。今の社会に於いては正しい答え、正解を一早く打ち出すことが優秀な学生だと評価されております。しかし、本学に於いては、この4年間の中で如何に己に厳しく、自分の本質に向かい、物を創り出すかということです。創り出したものが全て高い評価を得るわけではないし、正しいかどうかもわからない。その中で諸君が将来的に確固たるものを掴みとっていかなければなりません。このことは実学とはちょっと違うエネルギーが必要です。大変難しいことではありますが、本当の自分を見出すこということは簡単にはゆきません。しかし、アタックせねばなりません。その厳しさによって第三者の理解を深めることになろうかと思います。ゼロから物を生み出すというのは、言ってしまえば人間の原初的なものであるかもしれません。しかしそれはモチーフに常に尊敬の念を持ち、その上、持続する努力も、体力も必要であります。そのことは他者に対して深い愛がなければ成立できないと思っております。この愛が今一番必要とされているのではないでしょうか。本学の根本になるのはそこであります。これを美の力と私は言っております。美の力はかなり深く皆さんの中に入り込んでおります。軽々に表面に出てくるものではありません。大変地味であり、努力を持続することによって得られるものと思っております。これが前段で申し上げた自然との共生というなかで、美の力を持った諸君の登場が実学を中心として国作りをしてきた現在の日本のなかに、しなやかな感性と創造力を蓄えて卒業する皆さんの参加によって、この国も変わることができるのではないかと思っております。もちろん、素晴らしい作品、素晴らしいデザイン、素晴らしい建築を生みだすことは当然でありますが、同時にそれを創り出す人間の心根、それをこの大学は大事にしたいと思っております。

言うか言うまいか迷っておりますが・・・。これから申し上げることは諸君の家庭で言えば、おじいさんがまた長話を始めたよ、というように気楽に受け取ってください。昭和36年、1961年に、私は武蔵野美術学校を卒業しました。本科西洋画科というところです。つまり絵を描いていたということであります。卒業にあたって、大変親しい10数人の学生に対し、かつまた大変親しく付き合っていただいた助教授が、卒業の折に贈る言葉として、「君たちは卒業後10年間絵を中心とした生活を続けなさい、大変でもとにかく続けなさい」というはなむけの言葉でした。十数人の大半は、10年間頑張っていればなんとか絵で食っていけると早とちりいたしました。真っ赤な嘘でした。絵だけでは生活出来ません。それでよくよくかつての助教授の言葉を考えてみますと、卒業して10年というとだいたい30も半ばぐらいになっています。そうするともういわゆる正業に就けないのです。まともな就職はほとんど無理になって来ているのです。アルバイトでしか生活出来なくなっているのです。絵を描かざる得ない。これは完全に引っ掛けられたと思いましたが、今考えるとなかなかの金言ではないかと思っております。こういう日陰者の開き直り的な生き方をせざるを得なかったのも当時の社会状況や、学校の持つ情報力の不足あるいは個人の実力不足では無理ないことだったと思っております。しかしながらその早とちりにより何十年か絵を中心とした生活を続けることによって、現在があるのです。決して誇って言っているのではありません。これを敢えて申し上げたのは、先ほど申した美の力と繋がるのではないかと思ったからです。

その十数人のなかにA君という在日の学生がおりました。彼は在学中から大変多作で大きな絵を沢山絵を描いたうちの一人でした。もちろん、卒業後、彼は絵で食べていくという宣言をして東京の生活を始めました。3年後にとうとう生活がゆきづまり関西の方へ逃げ帰りました。当時、都落ちという言葉が随分使われました。それから消息が途絶えました。私よりも親しい人には多少連絡があたったようですが、私にとっては白紙でした。卒業して40年後、大変豪華なDMが突然届きました。銀座でかなりの壁面を持つ画廊での個展の案内でした。40年間1点も描かずに、彼は何をしていたかと言いますと、東京で生活できないので大阪に戻り、金屑を中心としたゴミ拾いから始めまして、後に日本でトップのリサイクル会社を設立し、日本のリサイクル法の立案にも中心的な存在として活躍しておりました。知らないのは私たちだけでした。その彼が40年経って息子たちに会社の権利を全部譲り、絵を描き始めました。男が40年一筆も絵筆を執らない年数があったとすると、金にあかしたギンギラな額縁でつまらない絵を見せるのが関の山ではないかと思っておりました。従って会場に行くのを同級生として大変心配でした。ところが、絵を曲がりなりにも描いていた我々の方が40年間何をしていたのか、という程のものすごい絵でした。聞いてみると、彼は40年間一筆も描かなかったそうです。しかし、頭と心で常に描いていたようです。その会場での彼の言葉は40年間君らに遅れている。これから頑張らねばならないと言って、その後、盛んに発表を続けています。しかも彼は芦屋の有馬温泉に繋がる高級別荘地に広大なアトリエと豪華な自宅をついこの間、建設しました。それでだいだいピリオドですよね、成功者として。ところが彼のあくなき絵に対する追求力が彼をつき動かし、モチーフにしている故国の風景をものにするのは旅行者ではダメであり、故国に舞い戻ろうと本拠地を故国に移そうと今、苦闘中です。彼はかなり高度で豊かな生活をしています。しかしながらそれを投げ売って、韓国に戻ろうかと今考えている。ここなんです、僕が敢えて迷いながら彼の話をしたのは。絵というもの、そして絵を創る人の業というものが先ほど私が言った美の力と結びつくのではないでしょうか。誰に要求されているわけではない。彼はそういう状況のなかで自分の画業に対してするどい突っ込みをまだ続けようとしている。これが経済的に貧しい状況なら分かります。豊かな人間がそこに入り込んで行くというのが不思議であり魅力的です。彼が過ごした武蔵野美術という空間にひとつの答えがあるのかもしれません。一本の筆が社会経験豊かな男の後半生を左右する程の力がもうひとつの美の力ではないかと思っております。長くなりました。終わります。

ご臨席のご家族の方に申し上げますが、入学は果たしたけれどもこれから卒後どうなっていくのかというのが、当然ながら色んな思いをお持ちであろうかと思っております。本学は本人の努力が大前提ではございますけれども、就職課も含めて、今後に向けて就職、留学等々に対してしっかりとフォローしていく体制が出来ております。その辺も含めてお伝えしながら、私の式辞を終わらせていただきます。

理事長祝辞

学校法人武蔵野美術大学理事長 高井邦彦

" 若い人よ! もう一歩 前へ "

新入生の皆さん、武蔵野美術大学へようこそ!!心から歓迎します。そして、ご家族の皆様、おめでとうございます。

昨年は正に大震災の直後であり、何よりも「安全第一」の立場から、入学式をこの体育館ではなくそれぞれの学科毎の教室で行いました。

今日はいつものこの場所で入学式を迎えられ、うれしく思っています。罹災された東日本の方々には、まだまだ復興への長い道のりが残されていますが、一歩一歩前進を続けておられること、心から喜んでおります。私たちも応援を続けます。

さて、この佳き日に最初に申し上げたいのは、わが大学建学の精神です。「教養を有する美術家の養成」と「真に人間的自由に達するような美術教育」という大きな志です。十分な教養を積み、そして真に人間性溢れる美術人への教育を目標としています。これに応える皆さんの挑戦がいよいよ始まります。私からは二つの提案を送ります。

まず一つは、わが国内外の現状、政治・経済・社会など一応の知識は皆さん頭に入っているでしょうが、これからの四年間は意識して、日本の外で起こっていることに少しずつ関心を広げて行って下さい。そのためには英会話のある程度の「習得」とともに隣の国の韓国語あるいは中国語いずれかの「基礎学習」を目標にすることです。そして二年目から休暇を利用して、アジアの国を実際に訪ねてみてください。友人ができれば最高です。私の場合、アメリカが最初の外国でした。欧米の友達にアジアのことを聞かれては何度も(!)失望させてしまいました。

提案二つ目、日本における美術の役割と方向を時々注意して確認して下さい。今、日本のモノ作りが着実に変わりつつある環境にあります。欧米諸国はもちろん新進諸国もコスト面・技術面双方で競争力をつけてきています。ここで日本にとっては、美術の新しい登場となりました。伝統あるファイン・アーツを広く固い土台に「デザイン」がモノの「評価」の新しい視点となり、美が生活に溶け込んでいます。「建築」・「映像」・「アニメ」なども同様です。「右脳」の産物とでも云うべきでしょうか これから始まる皆さんの四年間、貪欲に、思い切って、楽しく、新しいもの、古いもの、すべてにチャレンジして行って下さい。美術は皆さんには、正に宝の山のはずです。

最後に一言、昨年完成した私たちの大学の美術館・図書館のこと、この佳き日にご家族と一緒にぜひお立ち寄りください。新しい建築を象徴する一つの建物だと思います。

以上、お祝いの言葉といたします。

教員祝辞

武蔵野美術大学教授 深澤直人

今日この良き日、晴れて武蔵野美術大学にご入学される新入生のみなさん、ご入学まことにおめでとうございます。そして、努力を重ね、本日に至った新入生を支え、ともにご尽力いただいたご両親やご家族、ご友人のみなさんにも心からお祝い申し上げます。

わたくしは武蔵野美術大学基礎デザイン学科教授の深澤直人と申します。本日は本学教員を代表いたしまして、皆さんにお祝いの言葉を申し上げたいと思います。

みなさんのご入学にいたる本日までの道程はたいへん険しく、その努力は並大抵のものではなかったことと推察いたします。武蔵野美術大学が、多くの偉大な芸術家やデザイナー、あるいは創造者として、社会のあらゆる分野で活躍する諸先輩方々を多く輩出して来た歴史と伝統のある大学であり、芸術、美術、デザインを学ぶ最高学府の一つであることからしても、その仲間入りを果たしたみなさんの大きな喜びは、計り知れないものと思います。
その希望に満ちあふれた今日この良き日の感動と感覚をしっかりと記憶に刻み、これからの大学生活を送って下さい。

みなさんは本大学を卒業することによって美術学士、あるいは芸術学士としての学位を得ることをご存知でしょうか。本学は文字通り美術を学ぶ場であります。言い換えれば、「美」を学び「美」を生み出す力や知恵を習得し、それを社会や生活に生かす専門家とことを目指す場であります。
みなさんは「美」あるいは「美しさ」について深く考えたことがあるでしょうか。
ここで一つの例として、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが説いた、「欲求段階説」のお話をしたいと思います。マズローは人間の欲求は5段階あると説いています。この5つの欲求を低い方から「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認や尊重の欲求」そして一番高い欲求を「自己実現欲求」としました。1段階目の「生理的欲求」は食べること、寝ることといった生命維持に必要な本能的な欲求。2段階目の「安全の欲求」は安全性や、経済安定、健康維持、よい暮らしの水準などの秩序を得たいとする欲求。3段階目の「所属と愛の欲求」は情緒的な人間関係、4段階目の「承認や尊重の欲求」には地位名声などを得たいという低レベルなものと、高レベルの自己尊重感、技術習得能力、自立性などがあり、そして人間はこれらの4つの欲求が満たされても、自分に適していることをしていない限り、新しい不満が生じ、自分の持つ能力を発揮し、具体化して自分がなりえるものにならなければという欲求が生まれ、それが行動の動機となるようになります。5段階目の「自己実現の欲求」を含めてすべての5つの欲求の段階を満たした「自己実現者」にはいくつかの特徴がみられるそうです。そのなかの幾つかに、「現実を有効に知覚し、より快適な関係を保つ」、「自己、他者、自然を受け入れる」、「自発性、単純さ、自然さ」、「認識が絶えず新鮮である」、「至高(しこう)なものに触れる神秘的体験がある」、「哲学的で悪意のないユーモアのセンス」、そして「創造性」といったのもがあります。
4段階目までの欲求「欠乏欲求」を超え、5段階目の「自己実現」を果たしたものは少ないと言われますが、みなさんが今これからまさに学ぼうとしている「美」や「創造」こそ、みなさんが得ようとしている「自己実現」のことなのです。

昨年の東日本大震災やその後の地殻変動、安心安全の技術への信頼の欠如、世界経済の不安定さなどが世界中を不安の底に落とし込もうとしています。3段階目の「所属と愛の欲求」どころか、1と2段階目の「生理的欲求や安心安全の欲求」すらも危うい昨今の世界状況にあって、「芸術・美術やデザイン」などの創造性を求めることは置き去りにされそうな感さえ否めません。
しかし、これからみなさんが学び、実践していく「美」の追求なくして、人は本当の満足、言い換えれば「幸せのかたち」を手に入れたとは感じることができないのです。

みなさんがこれから学ぼうとしていることは人類が得ようとして止まない高次元な欲求であり、「幸せ」や「適正」を具体化する能力や才能のことなのです。
高い地位や権力者に捧げられた美術の品々を生み出すことを美術とした時代は終わりました。美術もデザインも日常の平和を築くための関係を生み出す技と変化してきました。
「美」はすべての人に与えられるものでありそれを生み出すのがみなさんの使命であると期待して止みません。

本学に入学したことを誇りとし、胸を張り、明るく前を向き、そして皆さん自身の才能を自覚し、これから「美しい」ということは何かを学んでいって欲しいと思います。

ご入学おめでとうございます。

卒業生代表祝辞

卒業生代表 柳澤知明

平成24年、新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。保護者の方々にも心よりお祝い申し上げます。

13年前、私も同じ体育館にいました。そのときにはまだ、自分がまた母校の入学式に来て、まさか、みなさんの前で話をすることになるとは思ってもいませんでした。正直、自分のことはまだまだだと感じてはいますが、こうしてこういう場にたつ機会をいただけたので、自分が信じる事を続けてがんばってこれたと少し実感しています。

実家から出てきて、一人で暮らし、田舎で予備校もなかったので、美大にいく友達も近くにはいませんでした。新しい事だらけで緊張をして、それでも自分がやりたい事をできる近道だと信じて期待でわくわくしていた事を覚えています。

入学したデザイン情報学科はそのとき出来たばかりで私たちは一期生でした。先輩もいなく、将来像も見えてはいませんでした。でもだからこそ、それぞれ違ったものに興味をもった学生たちが集まり、それぞれたくさんの刺激をもらいました。先生方もいろいろなバックグラウンドを持っていて大きな枠組みの中で垣根なく学びました。そういった意味で私たちは自由でしたし、いろいろな可能性から望んだ道を選ぶことができました。大学という時間は自由で可能性は無限にあると思います。ただ、それは自己責任の上に成り立っているのかもしれません。自分で望めば、たくさんのものを得る事のできる場であり、望まなければ手に入らないのかもしれません。今でも少し後悔する事もあります。大学生活で得た事もたくさんあります。その一方であの時にしか、得ることができなかったものもここに残っているように感じます。

自分が今のような仕事をしているのも才能があったからだとは思っていません。多くの巡り合わせ、人の助け、運もよかったと思っています。ただ、自分で望んで動いてこなければ、今のように人とも出会ってなかったでしょうし、運も巡ってこなかったと思います。

留学をできたのも、高校の時からなぜか迷いなく思い続けていて周りにもさんざん話してきたからかもしれません。海外に行くことも飛行機に乗る事も初めてでしたが、恩師をはじめ、周りの人の助けもあり、不思議と躊躇はありませんでした。そしてここを卒業後、4年半ロンドンで過ごし、日本に戻りました。
日本を出た事は今の自分に大きく影響しています。

そこにいては気づかないことはたくさんあります。
私は外に出る事で今までの当たり前だったことを客観的に考え直すことができました。

文化の違いで自分が当たり前だと思っていた事がそうではなかったり、また当たり前だった日常の中にも気付きがあり、物事を客観的に捉えることの重要さを感じ、また、自分の戦える場を、自分が口を出していい範囲を広げる事にも繋がりました。

できれば世界に出てください。ここにいるみなさんは、人とは違った視点で物事を捉えることができ、それを伝える才能を持っているのだと思います。そういった人たちこそ世界に出て活躍すべきだと私は思います。

私がこのお話を頂いたのは実は去年の祝辞でした。しかし、あのような大震災が起こり、複雑な気持ちになりました。このような状況で私が何を話せば良いのか、何ができるのか。考えても思い浮かびませんでした。ただただ、働いてできる限り募金をする。それしかできませんでした。それも事実です。クリエティブという主張をまとったままで解決できる事もできない事もある。ただそれだけです。あの出来事はたくさんの人の考え方に影響を与えてしまったかもしれません。ただそれは終わりでも限界でもありません。

可能性は無限に広がっています。ただ傲り高ぶって目の前の人を忘れてはいけないし、大学という新しい場で、客観的に物事を捉え直してみる事を忘れず、今まで当たり前だった日常に気づく事も大切にしてください。そして、貪欲に自分のやりたい事を探し見つけて、望み続けて下さい。

本日は本当におめでとうございます。