鈴木富美子

大学院造形研究科美術専攻版画コース修了 2014年3月修了 パリ賞受賞 2022年度 2022年10月-2023年9月入居

パリ賞でフランス・パリに来てから半年以上が経ち、残りの滞在もわずかとなった。
1年間の海外生活に加えて初めての一人暮らしという大きなイベントを今回の滞在で体験出来ている。

私のパリ滞在の目的はフランスでのリトグラフ制作である。
リトグラフとは版表現の技法のひとつで18世紀末にドイツで発明され印刷技術として発展し、19世紀には当時の画家たちによってフランスでリトグラフの作品が多く作られるようになり、版画技法として花開いていった歴史がある。元々リトグラフに使用する媒体は石板であったが、現在の日本ではリトグラフに使用される版の媒体はほぼアルミ板である。武蔵野美術大学の授業でももちろんアルミ板を使うのが主なのだが、学生の頃に石版石を使ったリトグラフの授業があり、その時に石板を使ったリトグラフにプロセスを含めて魅力を感じ現在に至るまで石版石によるリトグラフ制作を続けている。

フランス、特にパリには多くのリトグラフ工房が今でも数多く存在する。それらパリの工房で制作する為に渡仏する前に色々とリサーチをしたのだが、日本で調べて出てきたのは2~3か所、しかも高い。そして自分で描いて自分で刷れるような工房は調べたその中にはなかった。現地に行けば情報はもっと手に入るだろうと随分と楽観的になりながらパリへ出発し、到着して最初の2か月くらいは工房についての情報収集をしながら、美術館へ行ったり散歩をしたりと、学業も仕事もない、とてもゆったりとした日々を過ごした。
人の習慣は環境によって大きく変わるもので、冬の日照時間が短く、晴れの日が少ないパリの街にひと月ほどいると、1日のうちに太陽が少しでも出ると「日光を浴びなくては!」と外へ出て散歩するようになった。日本にいた頃は散歩なんてほぼしないインドアな私が積極的に外へ出ていくようになったのは、私自身驚いたしその変化が面白かった。
滞在しているシテデザールは4区のマレ地区という好立地にあり、まさにパリの中心に位置しているため、有名な美術館や歴史的建造物が見渡せばそこかしこにあり、散歩していて飽きることはない。歩くことに抵抗がなくなっていったので、メトロ代を少しでも節約しようと基本は徒歩で移動することにした。
3ヵ月も経てば、土地勘が身についてきてなんとなくの場所が分かれば地図を見なくても歩いて行くことが出来るようになっていた。

写真:鈴木富美子
6月・工房でのグループ展

パリでの生活はというと、金銭的には正直辛いのが本音である。
パリ自体そもそも物価が高い街であるが、そこに輪をかけてどんどん物価が上がり、それと共に円安も進んでいった。制作費や交通費、食費をうまくやり繰りしないと日本へ帰れなくなってしまうのは笑い事ではないのだ。
外食はなるべく控え、基本自炊の生活。シテデザールを去っていく人達に調味料や食材などを貰える事もあり、そういうご近所付き合いもあって互いに助け合っている。あそこのスーパーはあれが安い、こっちのスーパーでは値引きがあったなどアート以外の情報交換も日常茶飯事だ。やり繰りは大変ではあるが旅行するだけでは得られない「生活」を経験させてもらっている。

リトグラフ制作の方はというと、モントルイユというパリ郊外の街に1から10まで自分でリトグラフ制作ができる工房があることをパリで知り合ったプリンターに教えてもらい、1月から通い出した。
この工房はリトグラフの他に銅版、タイポグラフィも制作できる工房で、同じ建物に彫刻の工房もあり、とてもローカルな場所だった。もちろんフランス語でのコミュニケーションが主で、最初特に困ったのは専門的な道具の名前や工程の表現の仕方が分からず、とにかく「これはフランス語でなんて言うの?」と一緒に工房を使っている人に聞きながら覚えていった。フランス語もそこまで流暢ではない私に対して、根気よく聞いてくれたり時々英語も交えて話してくれたりと、とても親切な方々ばかりで安心して制作に取り組むことが出来たのは本当に有難く、感謝しかない。大学を卒業してからは一人で制作していたので、その工房の一員としている感じがどこか懐かしく、「コーヒー飲む?」「おやつ食べる?」のような何でもないやり取りがとても楽しい時間だった。
この工房には150年程前のリトグラフ用木製プレス機が実際に使われていて、そのプレス機で作品を刷れたことも貴重な経験となった。
それからしばらくモントルイユの工房で制作を続け、5月には友人を通じて知り合ったフランス人と日本人の夫婦で運営しているリトグラフ工房で作品を作り、その工房が企画したグループ展に参加した。こちらの工房は製版や刷りの工程はプリンターである彼らに任せ、基本的に絵を描くだけというスタイルで(こういうスタイルの工房の方が多い)、電動の大きなプレス機で作品が刷られていく様は迫力がある。リトグラフのやり方の違いは日本の中でも人によって違うものだが、当然フランスと日本でも違うことがあり、その違いについて意見交換したり、日本では手に入らないインクや溶剤を試すことが出来たのはとても有意義で特別な機会となった。

このグループ展はリトグラフ工房があるベルヴィルという地区のオープンアトリエの一環で、毎年100を超えるアトリエや工房、ギャラリーが数日間に亘って展覧会やアトリエを公開し多くの人との交流の場となっている。我々のグループ展にも老若男女問わず、たくさんの人が訪れてくれた。
この企画に関わり、肌感覚でパリという街に根付いている「アート」や「ものづくり」への距離の近さと、手仕事に対して価値を見出すことやリスペクトのようなものを強く感じ、日本へ戻ったあとの自分への課題として何が出来るかを考えるきっかけにもなった。

写真:鈴木富美子
モントルイユの工房にて。150年前の木製プレス

ここまで書いてきた通り、わたしは滞在しているシテデザールの外で制作することが多く、だからこそパリの工房やパリに住む人たちと知り合い、関係を作ることができた。最初こそシテデザールに工房があればいいのにと思ったこともあったが、今となっては無くてよかったと強く思う。そうでなければここまでたくさんの現地の人達と知り合うことは出来なかっただろう。
もしまたフランスに行くようなことがあっても何の不安もなく戻っていける、そんな風に思える関係性を私と築いてくれた皆さんに心から感謝している。
9月中旬にはパリのリトグラフの工房で滞在最後の個展を予定している。今回の滞在ではひとまず最後になるが、次へ繋がる展覧会にできればと思う。
パリ賞という大きな機会を頂き、間違いなく人生の大きな分岐点となったと私は確信している。この滞在記では書き尽くせないほど多くの経験をし、楽しいばかりではなく、苦しみや悲しみを感じることもあったが、それらの経験を作品や作家活動に還元していきたい。
残りの滞在期間も充実した日々になるよう楽しもうと思う。