渡川いくみ

造形学部油絵学科油絵専攻 2015年3⽉卒業 パリ賞受賞 2020年度 2020年9月-2021年8月入居

2020年9⽉初旬、新型コロナウイルスの影響で世界中が混乱している中、私はシテデザールの⾨をくぐった。そこは不思議な静けさに包まれていた。まるで幽霊でも出そうな薄暗い階段を上り、先ほど渡されたばかりの⼩さな古い鍵でアトリエの扉を開ける。開いた扉の隙間から暗い廊下へと光が流れ出す。正⾯の⼤きな窓から降り注ぐ⻄⽇が⽬の中にわっと広がる。思わず窓に駆け寄ってそれを開けると、街路樹のマロニエの緑⾊が⾵に乗って部屋に⼊ってきた。葉の隙間から⾒え隠れするのは、今⽇の最後の陽の光をきらきらと反射するセーヌ川。窓から⾝を乗り出して右の⽅を眺めると、エッフェル塔が恥ずかしげにとんがり頭を出している。ここは夢にまで⾒た、パリのど真ん中のアトリエなのだ。しかし、様⼦がおかしかった。⼈の声も、誰かが作品を制作する⾳も聞こえない。実は、本来滞在しているはずの多くのアーティストが予定通りに出⼊国することができず、シテデザールの⻑い廊下にはただ空室が並んでいたのだ。数ヶ⽉前に到着しているはずの、もう⼀⼈の今年度パリ賞受賞者である宮本さんも、⽇本を出国できず⽇程変更を余儀なくされていた。ただでさえ忍耐強さが求められるビザの発給に加え、コロナウイルスという厄介な問題が、世界中のアーティストの渡航を中断あるいは断念させていたのだ。そのような状況の中、昨年から⼤学留学のためにすでに渡仏していた私は、当初の予定通り⼊居することになった。しかし当時は、⼊居者間の積極的な交流や展⽰などのイベントの実現が叶わないかもしれないと想うと運が良かったのか悪かったのか、わからなかった。そんな中、緊急的な⼀時帰国から戻り滞在を延⻑していた、前年度パリ賞受賞者の⻑⾕川さんが、笑顔で私を迎えてくれたのが温かく⼼に沁みた。

写真:渡川いくみ
アトリエの⾵景

しばらくすると、廊下やロビーなどでちらほらと、他のアトリエに滞在するアーティストを⾒かけるようになった。ある⽇、駐輪場に⾃転⾞を停めようとしていると、「その⾃転⾞、僕と同じですね。」と声をかけられた。それがご縁で、そのチリ出⾝の作曲家の彼と、彼の友⼈のオープンスタジオのヴェルニサージュで⼀緒にパフォーマンスを⾏う運びとなった。こんな⾵に、ちょっとした会話から国際的な交流や協働制作に発展してしまうのが、シテデザールの魔法である。

オープンスタジオとは、シテデザールで毎週⽔曜⽇に開催されているイベントで(2021年現在)、それを希望するアーティストがそれぞれ⾃分のアトリエを公開し、シテデザールの内外から訪問者を歓迎し、作品を⾒せたり、ディスカッションしたりすることができる機会である。実際この頃は、国の法律で複数⼈が室内に集まることが禁⽌されていたことから、オープンスタジオは無期限中⽌ということになっていたのだが、作品を発表することを諦めない情熱的なアーティストはどの時代にもいるもので、何⼈かのアーティストは展覧会やイベントを⾃主的に企画し、ポスターをエレベーターの中に貼るなどしてそれを告知し、⼈を招いていた。招待者も訪問者も⾃⼰責任という暗黙の了解で楽しく過ごす。なんともフランスらしい光景だ。

写真:渡川いくみ
Mo Sanの個展のヴェルニサージュで、Javier Muñoz Bravoとのパフォーマンス;コロナ禍にも関わらず、集まった⼈で部屋は熱気に満ちていた。

写真:渡川いくみ
Abeer Al-TamimiとChris Däppenと協働での映像作品の制作⾵景

さて、私のフランス留学の⽬的は、芸術⽂化としてのダンスを理論的かつ実践的に学ぶことである。
秀逸なクラシックダンサーでもあったルイ14世が「悪巧みする暇があるなら踊りたまえ」とでもいうかのように貴族たちに毎晩ダンスを創作・発表させたことから、現在の輝かしいパリ・オペラ座へと発展したという逸話を持つフランス。ダンスを⾃国の重要な⽂化として認識し、経済的にも多くの国家資⾦をダンスに投⼊している⾯⽩い国である。プロのダンサーが不⾃由なく⽣活するための社会保障システムが整い、クラシックバレエ、モダン・ジャズ、コンテンポラリーダンス、(まもなくヒップホップも追加されるとの噂)の教育者のための国家資格も設けられている。このような⽇本のダンス業界とは異なる環境、システムの中で、絵画とダンスの⼆つの分野を横断して制作を続けてきた私の「踊り」というものを⾒つめ直してみたいという思いがあった。

シテデザールでの制作活動と並⾏して通っているパリ第⼋⼤学ダンス研究学科では、フランスやアメリカの舞踊史、振り付け作品の分析やその⽅法論、ダンスの⽂化⼈類学的な⾒解などを、実践的かつ理論的に学んでいる。「ダンス」をスポーツとしてではなく芸術的・⽂化的現象として捉え、筋⾁や⾻格などの⾝体構造を学ぶだけでなく、知覚や想像⼒について現象学の理論を応⽤したり、社会学やジェンダー学の分野の理論や実践を参照したりと、「ダンスという⼀つの現象」を⾝体という媒体の内外から交差的に分析するのが特徴である。ここでの学びは⾮常に⾯⽩く、⽇々ますますダンスという何かの魅⼒に取り憑かれている。

授業がない時間には、観客としてダンス公演を観に⾏ったり、ダンサーとしてクラスやワークショップに参加したりする。パリでは毎⽇、様々なスタジオでオープンクラスが開催されている。実はシテデザールの敷地内にも、年間を通して様々なジャンルのダンスクラスが開かれるミカダンス[Micadanses]というスタジオがある。特にコンテンポラリーダンス分野では、実績のある振付家から新進気鋭の振付家までの、数多くのオープンクラスを受講できる。シテデザールにいる間は、アトリエからスタジオまで稽古着のまま⾏き来できるのが嬉しかった。

写真:渡川いくみ
Centre National de la Danse でのPo AngHsu によるワークショップ⾵景。CNDとは、クラスやリハーサル・公演のための13のスタジオ、ミーティングルーム、ダンス専⾨の資料館が国⽴のダンス専⾨機関であり、ここでパリ第⼋⼤学の授業も⾏われる。

しかし、コロナウイルスの影響で、実際にダンススタジオという空間に⼈が出⼊りできるようになったのは、⼊居後半年ほど経ってからだった。それまでの間、私はひとりアトリエに籠り、ダンスビデオという新しい分野の開拓に専念していた。危機的な状況は、「ダンスは映像には残せない」という私の頑固な信念を解きほぐし、新たな表現⽅法を⾒つける機会を与えてくれた。⾃分でアトリエで撮影した映像を、パソコン上で切り取ったり重ねたり、⾳楽とタイミングを合わせたりしているうちに、私は振り付けをしている時と同じ感覚になった。つまり、呼吸の振り付けである。⾳楽と映し出された⾝体の動きの間が少しでも悪いと〈ダンス〉にならない。それは今まで描いてきた絵についても同じで、画⾯上で⾊や線が引き起こす摩擦を私は呼吸と呼び、そこに魂を込めてきた。呼吸のリズムが悪いと⾊や線は〈絵〉になりきれずにただそこにあるだけになってしまう。もちろん⾒る側の知覚というものも考慮すると絵ではないとは⾔い切れないので、少なくとも私にとってのことだが。映像という表現形式を⾷わず嫌いしていた私はいつの間にか、ダンサーとしてあるいは絵画の仕事の中で培った呼吸という感覚を⽣かし、映像をダンスとして捉えて作品を作ることに夢中になっていた。

写真:渡川いくみ
映像作品『⽩⽇夢』:ことばとからだの往復書簡展出品

写真:渡川いくみ
⻑⾕川さんとの協働映像作品『sure』:六本⽊アートナイト2022にて採択

2021年初夏を迎えると徐々にコロナウイルスに関する規制が緩和された。そこで、私は最後に、オープンスタジオを企画することにした。私はテーマに、1年間過ごしたこのアトリエの空間そのものを選んだ。コロナ禍を共に⽣き抜いたアーティストたちや、ダンスの繋がりで出会った友⼈たちが、バカンスの真只中であるにも関わらず集まってくれて嬉しかった。アトリエに到着した⽇のあの光景と、今⽇のこの時間を重ね合わせながら、私は空間というキャンバスを新たに編むかのように踊った。

写真:渡川いくみ
オープンスタジオ⾵景

1年間の滞在は、新型コロナウイルス拡⼤防⽌のための厳しい規制と混乱の中で波乱万丈でありつつも、この機会を得なければ出会わなかったであろう、様々な⽂化的⽂脈を持つアーティストたちとの深いつながりと、アーティスト・ダンサーとしてさらに進展していくための種をいくつか私に残してくれた。この経験を⽣かし、今後も私はフランスや⽇本で、ダンスの⾯⽩さを⼈々と共有する仕事をしていく。最後に、この滞在で出会ったアーティストのみなさん、そして遠くから⽀えてくださった武蔵野美術⼤学の国際交流の職員の皆さん、油絵学科の樺⼭教授に⼼から感謝している。

宮本絵梨

大学院造形研究科美術専攻油絵コース 2012年3月修了 パリ賞受賞 2020年度 2021年10月-2022年9月入居

2021年10月、私はようやくパリへ渡ることができた。私がパリ賞を受賞したのが2019年、その翌年4月の渡仏予定を目前に、新型コロナウイルスがとうとう日本国内にも感染者を出したと、大々的に報じられ始めた。私の渡仏はいったん延期となるが、しかしそれがいつになるのかわからない。感染力の強い未知のウイルスに世界中がパニックへ陥る中、当然、私の受け入れ先であるcitéも大学側もどう対応するべきか混乱していた。

私のパリ滞在について、あまりにも多くの出来事があり、ここにどんな情報を選んで書くべきかと悩んだが、COVID-19パンデミック中の渡仏、ロシアの戦争、夫と離れ2人の子連れパリ滞在という、かなりイレギュラーな要素に富んだ私の経験が、いつか誰かの役に立つことができたらという思いから、できるだけ率直な私の経験談を記録に残したいと思う。ほんの1年間、フランスという地に滞在しただけのことかもしれないが、それまで日本以外を知らなかった日本人の私にとって、そして私の家族にとっても、このパリ賞からは筆舌に尽くしがたい宝物のような時間を頂いた。

2020年4月、まず1度目の渡仏延期が決まり、申請中のビザを止め、航空券や保険を全額キャンセルした。航空券の返金には半年以上かかった。日本ではちょうど年度末ということもあり、急いで子どもたちの就学手続きを復活させた。私の渡仏計画は、「いったんストップ」から「1か月後くらい」「半年後…」と二転三転し、ひとまず「1年の延期」という形に決まった。状況によっては中止もあり得るとのことだった。それほど大学も世の中も混乱していた。しかし1年経っても収束が見られないどころか、日本では感染者数が増加の一途をたどり、結局、さらに半年を経て2021年の秋に、私たちは渡仏することとなった。

さて、ここからがようやくパリ滞在記となるのだが、その前にもう一つ、パスポートタランについて少しだけ記したい。パスポートタランはフランスへの経済的貢献が期待される者や国際的な才能を持つ芸術家のための長期ビザであり、近年新しくできたビザの種類である。このビザの良いところはビジタービザと違い、現地で収入を得るようなアーティスト活動が認められていること、学校等に在籍していなくてもフランスでの居住継続が可能であることで、アーティストにとっては大変ありがたいシステムである。それまでパリ賞で渡仏する際はビジタービザという観光ビザを取得するか、もしくはどこかの学校に籍を置き学生ビザを取得する方法が基本であったが、コロナ渦の当時、取得可能なビザの種類が大きく制限され、ビジタービザもまた例外ではなかった。当時の私はビザの取得についても無知であったため、渡仏への希望がことごとく打ち砕かれていくような思いだったが、大学の国際チームの方々が懸命に情報を模索してくださり、パスポートタランを知ることができた。このビザならコロナ禍でも申請可能であったが、まだ導入されて間もないビザだったためか情報も乏しく、申請時は不安でいっぱいだった。しかしなんとかパスポートタランを取得できたことによって、後に他のパリ賞受賞者の方々や現地でパスポートタランに切り替えようとしているアーティストたちとも情報共有ができたことは、私も本当に嬉しく思った。

今回、私の渡仏の主な目的は、フランスの人権や宗教、教育の在り方を現地で体感し、自身の表現に昇華させていくというものだった。たった一年で何がわかるのかというほど人類規模の大きなテーマを掲げてしまったわけだが、現地で子育てをしながら見えた景色は、予想以上に私が求めていた課題をこの地の現実とともに教えてくれたと実感している。というのも、私が息子たちと共にパリに滞在することは、一時的とはいえ少なくともその地に住まう住民として、必然的に町や地域に根を張るような生活にならざるを得なかったからだ。

写真:宮本絵梨
明るい夜のセーヌ

私たちが滞在するcité internationale des arts(以下、シテ)というアーティストレジデンスは、その立地の素晴らしさや、アーティストたちと触れ合う多くの機会に恵まれたイベントの豊富さなど、これまで多くのパリ賞受賞者の方々が述べられたとおりである。私たちがシテに到着後半年ほどはコロナの影響で一部のイベントの開催に制限はあったものの、徐々に制限は緩和され、年が明ける頃には通常運営に戻っているようだった。ここには国籍も事情も異なる様々なアーティストたちが居住しているが、我々のように1年間も長期滞在できる居住者は少ないようで、私たちが滞在している間にもたくさんの居住者たちとの出会いと別れがあった。

育児をしながら自身の活動を続けるためには、周囲の理解と、時に誰かの手を借りることは必然で、それは日本に住んでいても同じである。私は決して堪能ではない語学力ながらも、まずはこのシテの中で信頼関係を多く築いていくことに必死になった。子どもがいるアーティストの部屋は珍しかったのでかなり目立った。中にはコロナの感染を危惧して神経質になる人もいたが、シテ内の職員をはじめ多くのアーティストたちが私たちを温かく見守り、支えてくれたことには本当に感謝している。

フランスでは全ての子どもに教育を受ける権利があり、近年では義務教育を3歳からとする政策がとられた。日本から一時的に滞在させる私の息子たちも例外ではなく、4歳の息子はシテから最も近い公立幼稚園に、7歳の息子はフランス語を話せない子どものための特別クラスのある公立小学校へ、区役所はスムーズに入学・入園手続きを進めてくれた。移民の多いフランスでは、フランス語を話せない保護者のためにもフランス語のレッスンを、無料で放課後の小学校で行っている。私も週2回、長男が通う小学校で受講し、DELF(フランス国民教育省が認定する公式フランス語資格)の試験まで受けさせてもらった。一緒に受講した仲間たちの中には、フランス語は話せるが読み書きができないという方もいた。
また、フランスの公立校は二か月に一度、2週間のバカンスがあるのだが、その際には学童が利用できる。定員はあるが日本の学童のような申請条件もなく、オルセー美術館や博物館見学などにも連れて行ってくれるのだから贅沢だ。

パリでは12歳未満の子どもは大人の同伴が必須なので、二人同時に送迎するには常に誰かに頼らざるを得ない。日本とはまるで違う環境、言語、人種の中で、有無をいう間もなく子どもたちは母ではないシテの親切なアーティストたちと手を繋ぎ登校する日常が始まった。私と子どもたちは、新しい友人がどこの国から来たのか、いつも手を繋いで幼稚園へ送ってくれる優しい友人は、来週にはどの国へ帰国するのだろう、と世界地図を広げて印をつけながら、仲良くなっては別れてしまう友人たちについて知ろうとした。無知な私たちに、彼らはいろんなことを教えてくれたし、中にはたった2ヵ月ほどの接点であったにも関わらず、帰国後も時々連絡を取り合うほどの絆もできた。食べ盛りの息子たちの環境への順応力は凄まじいもので、近所で週に2度開かれるマルシェやブロンジュリーの店員さんとはあっという間に顔馴染みになってしまった。街では子どもや母親、困っている人に対して優しく接することが、ごく当たり前のような文化を感じた。

私はシテで、2度のオープンスタジオを行った。一度目は、偶然の縁で集まった日本人7人によるグループ展で、フランスに在住しながら制作活動をするアーティストの方々も含め、「今の時代に居合わせた日本人である私たちが自分の現在地を見直すための地図」というテーマで、複数の部屋を同企画で構成しながらランダムに作品を散りばめていくという試みであった。技法も表現も異なる作家たち自身の手によって、時に意見を衝突させながら一つの展示を作り上げていく作業から得た経験は、シテだからこそ味わえる贅沢な挑戦であった。オープンスタジオでは舞台空間のような既存の部屋を借りることもできるが、モノづくりのアーティストは普段アトリエ兼生活の場として使用している自身の部屋を、シテ内外の不特定多数の人たちに見に来てもらう形式が基本なので、それだけでも十分に非日常的な体験である。私はこの時の経験を活かしながら、二度目は個展としてオープンスタジオを行った。

写真:宮本絵梨
オープンアトリエの風景

オープンスタジオは週に1度、たった1日の限られた時間の中だけで行われるため、多くの来客で賑わう。そして何より、普段顔を合わせる住人同士が、どのような目的でどのような表現をする人なのか、お互いをよりよく知る最高の場でもある。中でも、シテの外でできた友人たち、息子の友人ご家族や学校の先生までもが、私の個展を楽しみに見に来てくださったことにはとても感激した。今はSNSなどの便利なツールもあり、別れを惜しみながら母国へ帰国したアーティストたちともお互いの発表を喜び合うことができる。多くの来客が自分の作品を鑑賞しに訪れ、あれやこれやと話すのだが、私が一度自分の作品について話し始めると、途端にあたりが静まり返る。皆が作品を見ること、作家を知ることに真っすぐな気持ちで向き合っているように感じた。異様な光景に戸惑いつつも、ひとたび会話をすれば「お母さんをしながらこんな絵を描いているなんてすごいわ!」など、共働き大国フランスと言えど私たちが普段日本で会話するのとさほど大きく変わらないことには、ある意味救われるような思いがした。

私はこれまで、自身が作家の名で活動する限りにおいて、基本的に一人の表現者という立場以上のものになる必要はないと思っていた。だから、生活と仕事は切り離して考えるようにしていたのだが、はっきり言ってそれは難しい。それは絶対に作家としての私の口から発してはならない弱音だとも考えていた。でも、親という役割を担いながらアーティストを続けることがどんなに大変なことか、それが世界共通認識であることを知れたのは、たぶん私一人にとってだけでなく、これから活躍する若いアーティストたちにとっても勇気づけられるものなのではないかと思う。ありのままの私を受け入れてくれたこの環境で、私自身の表現も解放的になっていった。多くの国籍や宗教、セクシャリティがひしめき合うこの街では、作品そのものだけと向き合う前にまず目の前の人間と向き合い、素直に相手を知りたいと思う気持ちを大切にしているのかなとも思った。社会や時代を変えたければまず自分自身を変える。心豊かに生きたいから、芸術が必需になる。私がこの地で出会った人々からはそのようなライフスタイルを感じた。不思議なもので、ここがシテという特別な空間だからなのか、あるいはパリという街のせいか、生活と表現が一体となる感覚があり、自然と歌いたくなったり踊りたくなったり、時には詩や音楽を奏でたくなるのは、どうやら私だけではないようで、子どもたちもよく日常的に踊っていた。日本で同じように振舞っていたら、ちょっと変な光景に見えると思う。

シテ内外で私たちは、縁が縁を結ぶように、多くの出会いに恵まれた。時には自分の作品を、時には子どもたちを通して、帰国後も繋がりを保てる友人たちができた。ノルウェーの画家のトリセット氏とは、画材やお互いが好きなアーティストの話、今後の自分たちの表現についてなど多くを語り合えた。日本が大好きなクルド人アーティストのカケイ氏からは日本文化の美しさを教わった。市内に住む素敵な同性カップルの友人たちは、息子たちを我が子のように可愛がってくれ、ノルマンディーのご実家まで招待してくれた。ミャンマーからシテへ来たある家族は夫婦ともにアーティストで、お互い子どもたちの年齢が近かったこともあり、まるで親戚のような関係で共に時を過ごした。彼らは祖国の活動家でもあったため、緊迫する国家情勢から幾度も逃れる旅路の中、彼らの子どもは英語やフランス語が両親よりも堪能になったという。彼らの身の安全を踏まえあまり詳しいことは書けないが、凄惨な光景を多く見てきたはずの彼らは誰に対してもいつもにこやかで明るく、少し大人びた彼らの子どもも、私の息子たちといる時は兄弟のようにいたずらし合って遊んでいた。彼らのように、自分がアーティストであるがゆえに、緊迫した社会情勢の祖国へ帰りたくても帰れないという人たちが、シテの中には少なからずいた。また、目下の戦争から逃れるためか、息子の小学校のクラスに転入してきたウクライナ人の子もいた。「あの壁に描かれてる、黄色と青の国から新しい友達が来たよ」と、息子は私に言った。その頃は町の至る所で、ウクライナの国旗を目にした。

街の中心地からほんの少し離れれば移民街が広がっていたり、チャイナタウンがある。さらにパリの外へ出てみると、今度は白人しかいないような村があったりする。ほんの少し足を延ばすだけでも、計り知れない発見がある。
おそらく私は、知りたかったのだと思う。自分が何を知らずに生きているのかということを。

私達は基本的に、見たい景色を見て暮らしている。そういうものなのだという枠の中で、社会と交わっている。それは私たちが安心して暮らすためでもあるし、そうでないと私達は生活することに疲れてしまうから。
でも、ずっとそうしていることにも違和感を感じるし、疲れるはずだと思う。だから時々、違和を求めたり、違和を排除しようとする。
それはコロナ禍にも戦争下にも例えられるし、日々のなんてことのない暮らしにも例えられることだろう。私の渡仏動機だってそんなものだ。
たぶん私は、そういうことを常に自覚しながら生きていたいのだと思う。そのために絵を描いているのか、絵を描くからそんなことを思うようになったのか、よくわからない。
常に理性と感情との折り合いに悩みながら生きるのはとても大変だ。子育ても制作活動もまさにそれを痛感する。子(人間、あるいは多くの生物)はその親だけでは育たない。花と同じ、太陽や土壌などの環境つまり社会との関わりが不可欠だ。しかし、そういうことも全部ひっくるめて、努めて冷静に、最善を求めて意思決定をするのは、本当に難しく、時々自分本体もろとも壊れてしまいそうになる。私は、人間が自分をなるべく壊さないように生きるために、宗教やアートがあるのだと思う。私はその担い手として、これからも違和感を丁寧に受け止めながら生きていきたいし、私なりの違和感を表現し続けたいと思う。フランスで過ごした日々は私に、道標よりも多くの問いかけを残した。しかしきっとそれは、私がこの場所で本当に体感したかったことだったのかもしれない。

写真:宮本絵梨
息子たちが描いた絵

今回、私は自分の子どもを二人連れて、1年間という贅沢な時間をパリで過ごした。それは結果として、家族という大きな単位だからこそ得られた貴重な経験もあったが、もちろんデメリットもある。経済的な負担はもちろん、学校に通う子どもの生活に合わせなければならないため、好きな時に好きなところへ自由に行けるわけではないし、遊び盛りの子どもともなれば怪我も日常茶飯事である。私の息子は教会の階段で遊んでいる最中、大晦日に骨折した。しかし、それらをもってしても有り余るほどに素晴らしい体験ができた幸運の裏には、日本に残した夫をはじめとする家族の理解と、恩師や友の多くの支えがあった。たくさんの人に心配をかけ、励まされ、力を借りながら自分の活動ができたことに、この場をお借りして深く深く御礼申し上げたい。そして、今ここで伝えきれぬ私の感謝の気持ちと成果を、今後の自身の活動で示したいと思う。