富永華苗

大学院造形研究科修士課程美術専攻版画コース プラット・インスティテュート 2021年8月〜2022年5月派遣

写真:富永華苗シルクスクリーン工房暗室

5月20日東京、羽田空港にてPCR検査の結果が出て、私は無事陰性が出た事に喜びを感じるより先にNYで一年間生活したことにようやく実感が湧きました。“あ、私はNYに行っていたんだな”と。

私の協定留学は2019年の認定からコロナ禍によって長引いて三年、大学院一年から、休学、復学、渡米、日本への帰国のプロセスを経て終了し、思い返すと長いようで短い、大学院の半分をこの留学にかけたものでした。

私は武蔵美では、大学院の版画コースに在籍していて、主に版画で制作を行なっています。Prattでは、版画クラスに限らず自分が望めば他学科の授業も自由に履修する事ができます。なので、写真の授業や陶芸の授業等、自分のスキルの幅を広げる良い機会と考え、これまで興味はあるけど試した事がない版画以外のメディウムを学べるクラスを積極的に取りました。新しい技術を学ぶクラスは、どれも自分にとって新鮮で、改めて新入生になったかの如く学ぶ事の楽しさを覚えた一年でした。

ただ、Prattでの授業は、担当の教授や先生が何かを教えることはとても少なく、最初の数分で軽く説明をして、その後、自主制作又は学生同士でのディスカッションの時間が設けられます。そして、次の授業までに課題提出を求められ、その後に講評が行われます。クラスにもよると思いますが、自分が履修していたクラスが、次までに何かを仕上げる必要があるクラスが多く、与えられた課題をクラスの時間外でも工房でひたすらこなし、終わったと思ったら別のクラスの課題が待ち構えている。そんな課題と締め切りの追いかけっこの日々でした。

課題はやれば終わるのですが、講評は自分にとって別ものでした。武蔵美で行う講評とは異なり、学生が主体となって行われます。教授は、最後に話をまとめる役として参加していて、武蔵美の講評とは真逆でした。言語や文化の壁が想像していたよりも高く、相手が何を言っているのかを理解するのに精一杯で、質問を頭の中で同時に組み立てる事が上手くできず、もっと話せたら、また、美術史だけでなくアメリカ文化についてもう少し学んでいたらと思う時が多々ありました。

しかし、美術のいいところは、作品があれば会話が必ず発生する事です。作品を通して会話が進み、流動的な言葉のやりとりの中で、自分が気づかなかった視点や考えを受け取り、一視点からではなく、多様な視点で自分の作品を観察し、次の制作へと取り組むことができました。

逆に言えば、作品がないと話になりません。その作品を作るにあたって、私は元から制作のスピードが遅く、作品を一つ作るにも時間をかけて考えてから行動に起こすため、ほとんどが講評であったPrattでの制作に慣れるのに少し時間がかかりました。向こうでお世話になった版画の教授からよく言われていたのは、「考えるのも大事だけど、手を動かして形にしてみること」でした。また、Prattで版画作品を作る際、紙以外の様々な素材に刷ることに挑戦し、過去の作品と異なっていく事で悩んだ時には、「同じ作家が作った作品という点でその作品を眺めてみて」と言ってくれました。そして最後に必ずといって良いほど「ダメな作品(Bad work)をたくさん作りなさい」という言葉でした。これらの作品や実験が、ある日突然自分の制作とつながる時がくるかもしれないし、こないかもしれないと言われた当時は、曖昧だなあ、と思ったりもしましたが、その作品に対する気軽さが、制作への取り組み方を見直す良いきっかけを自分に与え、一つの作品に対しての重さは分散し、軽やかに作品と作品の間の行き来を可能とさせました。自分が考える版画の軽やかさが、ある意味ようやく自分の作品の向き合い方と合致したといえるでしょう。

大学施設での学び以外にも、NYは美術館やギャラリーが集中していて、展示を見るだけでも学びが多く、授業がない日や週末はマンハッタンへ足を運びました。NYで最初に訪れたMoMAで見たのは大好きなマティスの絵です。偶然にもその部屋には、誰もおらず、しばらく椅子に腰掛けて眺めた贅沢な独り占め鑑賞時間はいまだに忘れられません。また、NYの生活の一部としてDashwood Booksという写真専門の本屋さんに一週間に一回インターンをしに訪れ、そこでは、本を通して自分があまり接してこなかった写真の世界につかりました。

NYでの時間は、改めて自分がこれからどうしていきたいのかを考える貴重な期間であったと思います。その中で、実際に見たもの・体験したものは自分の制作のみならず、これらは自身を構築する一部に取り組まれ、自分の思想や信念に何らかの影響を与えることでしょう。それが良いか悪いかはまだ分かりませんが、今言えるのは、休学を選択して、コロナで延期になってしまった留学へ行った事に後悔はありません。たくさんの経験と気づきを発見した機会に感謝し、これからも真摯に自分の追求したい事に取り組んでいきたいと思います。

伊藤太郎

工芸工業デザイン学科 プラット・インスティテュート 2021年8月〜2022年5月派遣

写真:伊藤太郎早朝のブルックリンブリッジにて

かの有名なセントラルパークも素敵だけれど、ブルックリンのプロスペクトパークが僕のお気に入りだった。ニューヨークらしくなく静かで、緩やかな高低差のある地形と深い緑の木立が美しく何度も通った。

朝6時に起きてその日にやることを考えながらコーヒーを淹れ、ボールペンでコピー用紙に楕円の練習をすることが朝の日課だった。手についたインクの汚れを洗い流して8時に朝ご飯を食べる。見通しの甘い計画を練り直し、うーんと伸びをしてからまた課題を始める。昼ごはんを簡単に済ませて午後の授業に行き、夕方6時頃学校のジムに行って5マイル走る。帰ってきてシャワーを浴びて夕食の支度。そこには、ニューヨークと聞いて想像するようなキラキラした生活はない。それでも昨日できなかったことが今日できるようになっている、成長していく自分を実感できるのが嬉しくて楽しくて、ひたすらペンを走らせ、モデルを作り、新しいデザインを考えていた。

僕が学んだインダストリアルデザイン学科(以下ID)はとにかく慌ただしい。モデル20個、シーンスケッチ30枚、プロトタイプ15個…と各クラスで終わるのか疑問になるほどの量の課題が出ることもある。プラットでは常に形あるアウトプットが求められる。目に見えるスケッチやモデルがないと教授とも話が進まない。だから、授業前には必ず自分の頭の中のアイデアや思考をビジュアル化して持っていくようにしていた。

閉館時間ギリギリのアメリカ自然史博物館に滑り込んでスケッチを済ませたり、地下鉄を乗り継いでニューヨーク植物園に行ったり、1時間待ってもこない地下鉄に痺れを切らしてマンハッタンから歩いて帰ってきたり、課題でもプライベートでもニューヨーク中を歩き回った。教授の元職場のデザインスタジオやショールームを見学させてもらったり、友人と課題のためにライティングを扱うスタジオをいくつも回ったり、ニューヨークはデザインのインスピレーションには事欠かない場所で(値札さえ見なければ)最高に楽しい。

プラットは、とにかくそこで学んでいる「人」が魅力的だと思う。10人ちょっとのスタジオの中で英語が第一言語の学生はひとりかふたり。国籍も年齢も様々。結婚している人もいるし、デザインを学ぶ傍で別のビジネスをやっていたりする(コロンビアでコーヒーファームを経営中で、これから無添加石鹸のビジネスに乗り出すという人がいた)。そんな学生たちが生み出すアイデアは、日本人の僕が想像もつかないような問題意識から生まれていて、彼らが組み上げるデザインストーリーはいつだって刺激的で示唆に満ちていた。「何かが生まれそう」な雰囲気を持ったスタジオが大好きだった。僕はそこで制作のエネルギーをもらっていたと思う。IDの学部2年生から院生までが同じフロアに入っているので学生間のコミュニケーションも活発で、学期の最後には全てのID生の課題展示がある。学年問わず全てのID生の作品が見られるのは下級生にとってはなによりの学びだし、上級生にとってもいい刺激になる。

モーターショーを見学しがてら友人を訪ねて行ったカルフォルニア、ベニスビーチの夕日。高校時代の友人の結婚式で飛んだデトロイト。自分のアシストでシーズン初勝利を飾ったプラットサッカーチームの試合。その全てが輝くような素敵な記憶だ。それでも僕の生活の力点は常にデザインにあった。100年後も残るデザインを生み出したいという僕の夢は今も変わっていないし、その長い道のりのスタート地点がプラットで学ぶ中でやっと見えてきたと感じる。この10ヶ月は本当に一瞬だったけれど、留学中に描いた三千枚のスケッチはきっとこれからも僕の背中を押してくれるはずだ。

最後にコロナ禍でも留学に送り出してくれたムサビの方々、そしてサポートしてくれた皆様、どうもありがとうございました。

王慧玲

大学院造形研究科修士課程デザイン専攻基礎デザイン学コース2年 ケルン・インターナショナル・スクール・オブ・デザイン 2021年4月〜2022年2月派遣

ドイツで学んだ最も重要なことは、デザインの共感と自己認識の重要性です。
ドイツで本物のバウハウスデザインを見ることができ、深く感動しました。
自分のデザインをするときの最も大きな問題にも直面するようになりました。
その問題とは、デザインの美的表現に重要性を置きすぎていたことです。
この数年間、私は無意識のうちに美を見つけることに執着していました。
その結果、私の作品は難解なものになってしまったのです。
昨年の卒業制作でも、美しさにこだわりすぎて、結局、実用性や商業性とは無縁のアート作品になってしまいました。
10ヶ月間生活した後、私はドイツのデザインの実用性に深く感銘を受けました。デザイナーの仕事は、主観的で個人的なものになりすぎず、他人の考えを大切にすることが一番重要だということを深く感じられました。
KISDのコースでは、安楽死を望む人のために、心臓病の子どものために、多種多様な人たちのためのデザインを考えています。
この過程で、デザインの共感性やデザインの目的性を実感することができました。

また、私は日本での作業では個人作業が中心でしたが、ドイツにいるときはすべての課程をグループワークで作業しました。
グループワークでは、効率的な役割分担とスケジューリングが本当に重要なことであると深く感じしました。また、お互いのデザイン思想を聞き、尊重し、受け入れることが大切です。
自分のデザインだけに集中するのではなく、他者と協働することをグループワーク中でさらに学びました。

日常生活については、休みの時、ドイツ以外には、パリとオランダにも行きました。
オランダに行った時、DDW21(Dutch design week21)をみました。さまざまなサスティナブルデザインの可能性を発見しました。パリに行った時、L’Arc de Triomphe, Wrappedをみました。
また、Bauhausをみるため、Weimar、DessauとBerlinにいきました。
色々な名作をみました。毎日、本当に充実でした。

本当に意義のある留学の経験でした。教室で学ぶのではなく、生活を通して学ぶことで、多くの知識と経験を得ることができました。また新しい国で新しい視点を得て、自分の作品をより多くの人に見てもらう過程で、自分の作品を改めて思考することができました。

先天性心疾患の子供に向けた動画の発表会

菊池友里

視覚伝達デザイン学科3年 弘益大学校 2021年9月〜2021年12月派遣

写真:菊池友里漢江にて

コロナ禍の留学だったので留学生活は二週間の隔離から始まりました。今振り返ってみると隔離期間が一番辛かったです。韓国は隔離期間が長く、さらにその間に履修登録や前期課題の提出などやることが山積みだったので、韓国についた嬉しさというよりは不安や焦りの方が大きかったです。

隔離が終わり始まった韓国での生活は思ったより快適でした。大学とその敷地内にある私が住んでいた寮は、ホンデという渋谷のような賑やかな街の中心にあったので、カフェやお店も多くどこに行くにもアクセスが良く便利でした。学校が始まってからも前半はほとんどオンラインだったので、発表や話し合いなどでも相手の話す言葉を聞き取るのに精一杯でしたが、対面で授業を受けることができるようになってからは慣れてきたのもあって余裕を持って授業に参加できるようになりました。授業はグループワークや発表が多かったので必然的に喋る機会も増えました。さらに対面授業になってからは同じクラスに友達もできて会話も増えたので、より自分の言葉で自然に話すことができるようになったと思います。

留学生活はたくさんの人に助けてもらいました。学校に日本人が少ないので、どの先生も常に私が授業を理解できているか気にかけてくれました。韓国人の友達もわからないところを質問したら私にわかるように言い換えて説明してくれたり、アドバイスしてくれたりと助けてくれました。また、同じ留学生として仲良くなった日本人の友達も支えになりました。旅行に行ったり遊んだりしてリフレッシュしたり、分からないところは教えあったりして留学生活を乗り切ることができました。

コロナの影響で帰国が早まったため、もっとできることがあったのではないかと心残りもありますが、先生が早く帰る私のために一人だけ先に講評をしてくれたり、帰る前には友達が日本語で手紙を書いてくれたり韓国生活のいい思い出も作ることができました。これまで韓国には旅行で一度しか行っていなかったので最初はうまくやっていけるか不安でしたが、最後には帰りたくないと思うようになるくらい充実した留学生活になったと思います。