伊藤思音

工芸工業デザイン学科3年 ケルン・インターナショナル・スクール・オブ・デザイン 2019年9月~2020年8月派遣

写真:伊藤思音

ケルンに来てから10ヶ月が経過しました。私の通うKISDは、コロナウィルスの影響で授業がオンラインに移行し、今は、自分の住むWG(シェアリングルーム)で授業を受けています。この10ヶ月間に私が経験した大学のこと、ケルンのこと、コロナの影響についてお話していきたいと思います。

私の通う大学、ケルン・インターナショナル・スクール・オブ・デザイン(以下KISD)は、そのユニークな教育システム故にドイツの中でも国際的に有名なデザインスクールの1つです。学生は13のデザイン分野の中から自由に授業を選んでスケジュールを組む事ができます。私は前期にサービスデザインのプロジェクト(2ヶ月ほど)ヒューマン・コンピュータ・インタラクションのプロジェクト(2ヶ月ほど)を選択しました。前者に関しては、私が日本にいる時から知っていたサービスデザインの創始者であるビルギット・マーガー教授のプロジェクトで、ファッション業界のサービスをサステイナブルな視点でデザインするというものでした。正直に言うと、英語でのコミュニケーションに慣れていない自分がこのプロジェクトを1番最初に取ったのはかなり厳しいものがあったように思います。サービスデザインは読んで字の如くサービスという形の無い物をデザインする分野なのでディスカッションの際に相手の言っていることを脳内で想像できないといけません。今になって思えば、英語力が上がってから取るのでも良かったなと思います。後者のプロジェクトに関しては、自分が日本にいる時から電気通信大学との連携プロジェクトなどで取り組んでいた分野だったので、コンテクストの理解には全く問題ありませんでした。このプロジェクトでは、視覚以外の人間の感覚器官に働きかける新しいインターフェースを考えるというもので、日本にいた時からArduinoなどを使っていたので他の学生に比べアドバンテージがあったような気がします。制作過程はとても大変でしたが、最終プレゼンテーションで思いっきり自分達(チームのプロジェクトでした)の考えたことを発散でき、教授からの評価も良く、満足できる結果が得られました。

ケルンがどんな街かについてですが、とても賑やかで活気のあるところだと思います。自分の住んでいるWGの近くには大きな公園があり、かなり高い頻度で足を運んでいます。また、冬はクリスマスマーケットが開催され、ケルンの中の所々で屋台が出店し、美しい情景が広がります。

コロナについてですが、ドイツの街は、コロナが世界的に問題になった直後から街から人がいなくなり、一時は、トイレットペーパーがスーパーから消えました。普通の食材に関しては、以前と変わらず入手可能でしたが、なるべく一度にたくさん買うことにより、急な品切れのリスク回避し、外出頻度を下げました。また、トビタテ留学Japanの支援金がドイツがレベル3になったことにより停止し、いつ支援金が再開されるのかなど常に分からないことについて考えなくてはなりませんでした。トビタテの知り合いで構成されるLINEのグループでは常に情報共有がなされていたことも記憶しています。大学は、コロナの影響により、授業をオンラインに移行し、私自身日本に帰国することを検討しましたが、自分にとっては語学力向上も一つの留学目的であったためドイツに留まることに決めました。6月現在、外に出ると街は以前と変わらないような活気を取り戻しているように見えますが、まったく気は抜けません。

今は、とにかく悔いの残らないよう限られた中でもデザイン、ドイツの文化、様々な人の考え方を吸収しようと考えています。

田中光

空間演出デザイン学科3年 ベルリン芸術大学美術学部 2019年9月~2020年3月派遣

写真:田中光UdKにて

ベルリンは不思議な街だ。
街や人は天気雨のように気まぐれで、自由で、時々カオスで。私はそんなベルリンに、居心地の良さを感じている。

10月からUdKでの授業が始まり、私はMonica Bonviciniさんという教授のアトリエに入った。ここにはたくさんの個性豊かな学生たちがいる。彼らの多くは全身黒い服を纏って、シルバーのアクセサリーをつけていて、なんだかみんな強そうだ。けれど彼らとなら、どんなに突拍子のない意見でも正反対な意見でも、なぜだか素直に正直に話すことができる。それはきっと個人の考えや感覚の違いに尊敬を持って受け入れるスタイルがベルリンにはあるからだと思う。

冬のベルリンの陽はとても短い。だからこそまるで植物が光合成をするかのように、貴重な光を出来るだけ浴びるようにしている。
私はいつもお昼過ぎの閑散としたバスに揺られUdKに向かう。アトリエにいる時間は自分と深く向き合う時間だ。制作に煮詰まると、高い天井の窓を開け、空気を入れ替える。寒いけれど、冷たい空気がすぅーっと体を包み込んでいってそれはそれで気持ちがいい。

週に一度、クラスから二人が各々の作品のプレゼンテーションをして、それについて全員でディスカッションをしていくのだが、Monicaさんの意向でドイツ語ではなく、 ”ここにいる全員がわかるように” 全て英語で行われている。一人2時間ずつくらい、じっくりと。とても濃い時間だ。
教授が参加するClass meetingとは別に、水曜日の夕方にみんなで集まって Informal meeting というものもある。クラス運営について話し合ったり、ただ何気ないおしゃべりをしたりと、ゆったりとした時間が流れる。

アトリエのほかにもUdKにはStudium Generaleと呼ばれる美術学部、音楽学部合同の授業がある。私が履修している授業では ”新しいノイズを探そう” というテーマを基に、学期末にベルリン市内のアートスペースでグループ展示をした。たった一晩限りの展示会だったけれど、会場にいる溢れんばかりの人が私の作品を見て、直接感想を聞かせてくれた。とても貴重で有意義な経験となったし、何よりすごく嬉しかった。

ここベルリンでは日本よりずっと、アートが人々にとって身近な存在だと感じる。毎日山のようにイベントが行われているし、街中いたるところにギャラリーがあるので、いつでも気が向いた時に、気軽に、アートに触れることができる。厳かな美術館で開かれるような著名なアーティストの展示も、もちろん興味深いけれど、友達が開く小規模な展示会はベルリンらしくてもっと面白い。
そして、そんなベルリナー(ベルリンに住む人たちのこと)に連れられて行く場所はどこもディープでとても楽しい。彼らといると、どんな日々になるか、どんな経験ができるか、どんな人と出会えるかは自分次第だということをひしひしと感じる。自分の気持ちに素直になって、感覚のままに足を進めてみると、自然と素敵な出来事や、とんでもなく素晴らしくて温かい人たちに出会えたりするものだ。

…それにしてもベルリンは本当に不思議な街だ。
とても自由で、人間が人間らしくて、どこかクレイジーで…。けれど生きていてすごく気持ちの良い街。それがベルリン。
見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって。頭のてっぺんから足の指先まで、肌で感じた、この感覚を大切に、東京に帰っても制作に励もうと思う。

松岡まどか

デザイン情報学科4年 パリ国立高等美術学校 2019年9月~2020年8月派遣

写真:松岡まどか留学生合同展示の様子

落書きだらけの校舎や細い道の中でタバコをふかす人々。誰かが食べ残したバゲットの端切れを一目散につつく鳩たち。ステレオタイプのパリとは全く違う風景に親しみを感じるようになったのはこの街が生活の基盤として動き体に馴染んできた証拠なのかもしれない。この街に来てあと数ヶ月で1年が経とうとしている。

渡仏前の日本で散々アトリエ決めに苦労するよと脅されていたころが懐かしい。私が行ったsemesterから世界もボザールも変革を迎えていた。元々入りたかったアトリエの教授含め多くの教授が入れ替わってしまい、自分のしたいことがきちんとできるか不安でしかなかったが、私の専攻する写真の新しい教授の元に無事入ることができた。必須ではなかったが私はより多くの視点の元で制作と評価を受けたかったのでもう一つ、マルチメディアのアトリエにも入れていただいた。写真のアトリエは新しいため受け入れ人数も多かったし、綺麗なアトリエで留学生にもきちんとスペースを同等に与えられたのでとても良かった。

12月5日、パリで大規模なデモが幕を開けた。結果、これは歴史に残る長期デモとなった。終いには、デモをすることに対するデモまでとにかくデモ三昧。交通機関はストップし、運行時間や本数、行き先の限られたバス停にはいつでも人だかりで3本も4本も次のバスを見送らないといけないことはざらにあった。当時はデモが何日間続くのか誰もわからず行き先のない焦りや矛先の無い不満は今考えるとコロナの生活ととても重なる。日本の報道という一片の視点からでは「デモをしている人々=過激でわがまま」なイメージしかなかった。でもこうして自分で体験して生活の一部の出来事になると、仕事を返上し無給になってでも国が変わるまで抗議を続ける人々がいることを初めて知ったり、街中で爆発音が聞こえたと思ったらこっちに人が走ってきて日本では浴びることのなかったのであろう催涙弾の洗礼に涙を流したり。毎日歩いて学校へ行って買い物に出かけて足が痛くなって外出に嫌気がさしたり。今までどこかの国の物語だったものが自分の生活の一部になることで自分が日本にいないことを実感できた。

そして、3月。コロナの波がヨーロッパにも押し寄せていた。学校からは突然「来週から学校には来ないでください。10月まで誰も入校できません。とても残念です。」とだけ言い渡された。突然学校がなくなってしまい1年間の学校が実質半分になってしまったことだけが悔いになってしまった。

でもここで強調しておきたいのはこの留学が残念だったり無意味なものになったのでは決してない。普段は観光客でごった返してごちゃごちゃうるさい街もゆったりとしたパリの風を落ち着いて感じることができた。日本からスタッフが来られないのでゴールデンの番組のカメラマンの仕事もできたし、VOGUEを始めとする撮影にも入れた。こんな年だったからこそできたものを沢山得ることができた。どんな状況下にあってもパリは新しいことを教えてくれる街だった。留学の機会を与えてくださった学校と家族にとても感謝している。

森本大樹

デザイン情報学科3年 ミラノ工科大学デザイン学部 2019年9月~2020年3月派遣

写真:森本大樹ミラノのドゥオーモ

ポリテクニコで自分の取っていたメインの授業であるInnovation Studioはラボラトリで12単位の授業です。火曜日の午前、木曜日の午後、金曜日の午前午後で、授業は基本的にグループワークでメンバーは6人です。自分のグループはイタリア人2人とアメリカ人が1人ブラジル人1人とイギリス/ドイツ人が1人です。内容は世界で2都市を選び、2035年の生活を気候変動を中心としたリサーチを重ねて予測し、シナリオを作成、そこからサービス、システム、プロダクト全てをデザインするというのです。まずは、シナリオまで持っていき、100ページ前後のブックレットを提出し、プレゼンします。これが最初の成績のつく課題です。自分達は30Lという満点プラスαという点数を獲得できましたがかなり大変でした。その後はどのような事がそのシナリオの中で可能なのかというところから始めてコンセプトを考えますが、そこからは毎週リヴィジョンになります。そして、モックアップまで持っていき実際にプロダクト、サービス、システムを構築するところまで自分たちで行います。週4コマ18時間の授業ですが実際には毎日集まって日曜日はチームの誰かと作業するというような時間配分です。最終的には学外でエキシビションをします。最終的なエキシビジョンは1月に行われ自分のチームは最終的に29/30点という評価で終わりました。

語学に関しては、PSSDは大学院の学科なので授業は基本的に英語ですが、英語力は大学院レベル以上でないと正直厳しいのではという気がします。レクチャーを理解できなければグループワークでディスカッションをすることも出来ません。アジアからの留学生で英語のレベルが低い他の留学生を見かけますが、正直なところ完全に蚊帳の外になってしまっているところがあります。そのようなチームメイトのいるチームも人数が減っているというのに等しい状況になってしまっているので、言い争いの種にもなりかねません。自分の場合はTOEFL ibtが78点で特にストレスも無かったので、それくらい出来ていれば良いと思います。あとは、学術的なボキャブラリーやイディオムを覚えておけば大丈夫です。スピーキングに関してはムサビ内の留学生と仲良くなって鈍らないようにしておくのも手だと思います。イタリア語に関しては基本的なことがわかればほとんど問題はないはずです。自分は結局買い物くらいでしかイタリア語を話す必要がなかったのでほとんどわからないまま留学を終えました。
また、学生寮ではなく普通のシェアドアパートに住んでいましたが、wifiは思いの外高速で部屋も広く特に不便はしませんでしたがイタリアは最初から壊れている、又はすぐに壊れるということがとても多いので壊れては困るものが壊れた場合などは自分のLandlordに根気よく連絡して直してもらう必要があります。

大学院という事もあり授業の深度がかなり深くとても良い刺激になりました。適切に且つ積極的に授業に取り組めば友達はすぐに出来ると思います。イタリア人は面白い人間だと思ったら打ち解けがかなり早いです。冬休みは南部出身の友達の実家に泊めてもらったり、他学科の教授に誘っていただきナポリに滞在するなどできました。

とても良い経験になったのではないかと考えます。

LEE SEUNGHYE

デザイン情報学科4年 弘益大学 2019年9月〜2020年2月派遣

写真:LEE SEUNGHYEビル内で見る雪

ソウルの夏は東京の夏より暑く、冬は日本の冬より寒いです。 雪が降ることもよくあり、東京ではよく見られなかった雪が見れてうれしかったです。 冬は足首まで来る長いパーカーを買わないと耐えられないくらいの寒さでした。防寒服は買わざるを得ないので行く計画がある方は防寒服を買うつもりでいた方が良いと思われます。

弘益大学に通うときに武蔵美と一番大きな違いを感じたのは学校周辺の環境でした。弘益大学は韓国語読みをするとホンイクデハクで学校の周りはホンイクデハクの略語「ホンデ」という大繁華街です。繁華街の中心に大学の校舎がドンとある感じで、大半の学生たちは昼休みや授業の空き時間に校舎を出て外で休み時間を過ごします。武蔵美は学校に来てしまえば校内にいる他選択肢がなかったのですが、弘益大学の学生たちは自由に校門を出入りし、束縛されている感じがなく、自由な様子でした。また、驚いた点は教授とのコミュニケーションが密だったことです。武蔵美だけでなく日本の学生たちは教授との仲が近い感じはあまりないのですが、韓国の学生たちは普段から質問をよくし、特にテスト後の成績処理期間には教授の研究室に訪問したりメールでやりとりをするのが頻繁に見られました。学習意欲が平均的に高く感じられ、教室内の雰囲気も武蔵美とはかなり違かったです。
弘益大学の校舎には散策路があり、学校関係者以外も出入りするのがよく見られ、夏休み中の学校内散策路には犬が散歩しているのも見かけられました。ホンデには毎日多くの観光客で混み合っていますが、弘益大学も観光スポットとして校内に多くの外国人がいますが、留学生なのか、観光客なのか判断しにくかったです。

授業の時間において日本と違って最初に戸惑ったのは一つの授業が週1で行われるのではなく、基本的に週2で構成されていて、学期内に色んな授業を受けるには限界がありました。他の学生たちはどうしているのか聞いてみると、学期内に取れなかった授業は夏休みや春休みや冬休みに受けるとのことでした。しかしその分授業一つ一つの蜜が高めなのでムサビと比較しては一長一短という風に考えられます。校内に勉強できるスペースがたくさんあってありがたかったです。

ホンデの街中では色んなイベントが行われているのがよく見かけられて校内だけでなく、校外でも多様な文化体験ができる環境で恵まれているなと思いました。ソウルにはバスがとても多く通学にも校門すぐ前に停留所がありとても便利でした。環境・便利さという面ではベストだったと思います。

林苑芳

デザイン情報学科4年 プラット・インスティテュート 2019年9月〜2020年8月派遣

写真:林苑芳タイムズスクエアにて

寮の窓から見える、ブルックリンの朝5時のグラデーションはいつだって美しい。
時差ボケで眠れなかったとき、スタジオで作業をしていたら夜が開けていたとき、日本が恋しくて友達と電話をしたとき、9階の窓からニューヨークの朝日をいつも眺めていました。

私は Communication Design 学科の Advertising Art Direction 専攻で、ブランディングやコピーライティングに加え、他学科の心理学やファッションデザインの授業を取っています。最初の1ヶ月は、毎朝チェックリストを眺めながら、何時間もスクリーンに向き合っているはずなのに終わらない課題に焦りだけが募っていきました。木曜は21時まで授業を受けて、24時に閉まる大判印刷に駆け込み徹夜して、金曜8時半に開く図書館に駆け込んで印刷し、9時から講評を受けて、17時に授業が終わり、土曜の朝7時から寮で数十ページの論文を読む。土曜の朝から何でこんなに追い込まれてるんだろう、と気付いた時には涙が止まらなくなった。終わらない課題に加えて、言語や文化理解のハンデも広告を専攻する上でとても大きく感じました。
誤解を恐れずに言えば、アメリカの美大はデザインを教えてはくれない。講義は生徒のプロジェクトベースで進み、課題に対して1週間でリサーチとデザインを行い、アウトプットを教室の壁に展示した状態から授業が始まる。作品の前に立ちプレゼンテーションをしてから、クラスの全員からコメントをもらい、最後に教授からのフィードバック。武蔵美でも人の作品にコメントをする機会はあったが、プラットに来て、作品に対する理解、コンセプトに紐付く既存知識、確固とした自分の軸がないと良いフィードバックは出来ないと学んだ。
特にデザイン学科の授業は社会問題に対する本質的な問題提起を求められているし、どれだけアウトプットが良くても、言語化出来ない作品は評価されません。また自分の意見がどれだけ教授やクラスメートと違っても忖度せずはっきりと伝える姿勢は、この街の「みんな違って当たり前」という意識を体現していました。

色んな価値観やバックグランドを持った人々に出会う毎日であると同時に、自分と向き合う時間も増えたと感じる。
意見を求められていくうちに、「自分は思った以上に考えきれてないし、そもそもなんでそう思ってたんだっけ?」と自問する機会が増えた。
ニューヨークでは他の言語を喋っていても誰もジロジロ見てこない、その一方で、自分がアジア系であることを不思議と意識するようにもなりました。

最初の数ヶ月間は学校に籠もりっきりだったので、意識的に週末はマンハッタンに出るようにしています。
プラットの学生証はほとんどの美術館が無料になるので、普段は出来ない贅沢な回り方をしたり、関係者のフリをしてNYファッションウィークに潜ったり、新年のカウントダウンにも極寒のタイムズスクエアで7時間並びました。特に中学生の時に留学を志すきっかけになった作品のロケ地であるグランドセントラルステーションに行った時は、感慨深いものがありました。またニューヨークだけでなく、感謝祭の休暇を利用してLAでデザイナーをしている従姉妹に会いに行ったり、長距離バスでボストンに面接を受けに行ったり、冬休みにはクラスメートとカリフォルニアでロードトリップもしました。
クリスマスの夜にロサンゼルスで飛行機を逃したことは忘れられませんが、何度も交渉して別の便に乗れたのも留学を経てメンタルが強くなったおかげな気がします。

様々なアクセントや言語が飛び交い、ボーッとしていたら何十人の人が足早に自分を追い抜いていく。ここで学ぶ全ての人が「この街で成功したい」という欲を持ってニューヨークに来ている。稚拙な表現にはなってしまうが、こんな子が将来世界で活躍していくんだな、そんなクラスメートに沢山出会えた。
でもコンペティティブな環境に来れたことだけで満足した、そんな人たちにも会いました。だからこそ今では、この街で生き抜き、成績優秀者に選ばれ大学に表彰された自分が誇らしい。

この留学で沢山のことを経験できたと思うけれど、やりきった感はなく、まだまだ人生でやりたいことが増えてしまった。デザインや語学はもちろん、一度しかない人生で、どういう生き方をして、どんな人になりたいかが明確になったと思う。そんな欲を引き出してくれたこの街にまた戻ってきたいし、大学生活を1年延ばしてまで留学を後押ししてくれた両親と、林さんなら何があっても絶対大丈夫と応援してくれた教授、様々なサポートをしてくれた武蔵美の国際チームに心から感謝しています。

加山美羽

視覚伝達デザイン学科4年 ベルリン芸術大学 建築・メディア・デザイン学部 2019年4月~2019年8月派遣

写真:加山美羽

大きな決断を先延ばしにし続ける性格から、留学のチャンスを逃し続けて来た。中学生の頃も、高校生の頃も、そして大学3年生の頃も。そんな自分を変えたくて、4年次に留学することを決意した。同級生が皆就活と卒制を頑張っている中、一度も足を踏み入れたことのない外国の地で過ごすことには迷いがあった。就職浪人も覚悟した。しかし、就職してから非英語圏のドイツに自力で留学することができるか?会社を辞めて、大学に通うためにドイツに旅立てるか?「いつか」は起こりえないかもしれない……。国際チームの受付で膝をガクガクさせながら留学の応募書類を提出した日を覚えている。

渡独して1日目、クレジットカードが諸事情で使えなくなり全財産10,000円で見知らぬ街に放り出された。大泣きしながら日本大使館の扉を(文字通り)叩き、セキュリティのお姉さんに抱きしめてもらったこともあった。U-Bahnの無料Wi-Fiを使って日本にいる親に電話をかけては「帰りたい」と泣きついたこともあった。孤独で孤独で、ご飯が食べられない時期もあった。留学後期にパソコンが盗まれてしまい、地元の警察の扉を(ここでもまた文字通り)ぶっ叩いた。留学中に作ってきたデータもすべて吹っ飛んだ。こんなことを書いたら留学を検討している方は怖がってしまうかもしれない。でも、こんなとんでもないことが起きても意外とサバイブできるんですよ。たくさんの人に支えられて、どうにか乗り越えられた。

巨大なスーツケースを抱えて階段を登っていたら鼻ピのお姉さんが手伝ってくれた。寮で払うお金が工面できない時に職員の人が「色々あって所持金10,000円の子」と話を通してくれた。大学の先生が英語で授業をしてくれた、在独日本人の方が日本食をふるまってくれた。パソコンを盗まれたときは友達がみんな集まって鼻水だらだらのわたしを抱きしめてくれた。

コロナ禍での留学は大変なことも多いと思う。わたしが体験した辛さとはまた違うものを体験する人も多いだろう。しかし、どんな場合でも、それは糧になる。周りの人がちゃんと助けてくれる。あっちが朝でこっちが夜の生活でも連絡を取り合う友人たちができる。走馬灯で結構尺を取りそうな、忘れられない大切な思い出になる。

留学しようか迷っている人。
ぜひ行けるうちに、行ってください。
ムサビのサポートを目一杯使って。
「またいつか」はないかもしれないですよ。

ドイツにいるときに金欠を理由にスペイン旅行を「またいつか」と諦め、直後にコロナ禍に突入してしまった元ムサビ生より。