中村季成

デザイン情報学科 弘益大学校 2022年9月〜2022年12月派遣

写真:中村季成

17歳の時、パッケージに惹かれて1枚のCDを手に取ったことで韓国のグラフィックデザインに出会いました。そのCDがきっかけで、それまで言葉もわからず関心を持っていなかった韓国の音楽とそのデザインの世界に引き込まれ、言語を超えたビジュアルによるメッセージの伝達を身をもって経験しました。
そんなファーストインパクトを経て遂に、念願であった韓国の弘益大学校で学ぶ機会を得ることができました。なるべく余すところなく吸収しようとした半年でした。

弘益大学校は美術学部だけではなく工学部、文学部など多数の学部を擁する総合大学で、交換留学生は学部に関係なく好きな授業を選ぶことができました。自分が履修したのはどれも視覚デザイン専攻の授業で、ブランディング、コミュニケーションデザイン、韓国デザイン史を学びました。
一番印象的だったのは、視覚デザイン専攻、通称“弘益視デ”の活気です。授業でのプレゼンのたびに、クオリティが高く魅力的な作品をいくつも目の当たりにし、その度に衝撃を受けたことを覚えています。細かな部分まで親身に指導してくださる先生も多かったです。課題制作では商業性やトレンドを重視したデザインをする学生が多く、根底にある大きな社会の流れを常に意識して制作を行っているように見えました。また、学科のサークル活動も盛んで、展示フロアでは毎週途切れることなく3DCGやエディトリアル作品の展示が行われていました。

似ているようで違う日韓の文化、言語、価値観の中で制作を行いました。弘益での授業はプロジェクト数や発表の機会が多く、毎週のようにプレゼンを行っていたので、言葉の壁を意識する瞬間は特に多かったです。しかし、だからこそビジュアルコミュニケーションについて殊更に試行錯誤することができました。ある授業で「キナリは韓国語がそんなに上手じゃないけど、制作物の色や形態で意図が伝わっている。これがビジュアルコミュニケーションだよ〜」とフィードバックを頂いたことがありました。自分の拙い言語能力に対する悔しさはありましたが、それと同時に、視覚的なコミュニケーションは成功したのだということを強く実感しました。この出来事は、自分の留学生活の中で最も重要な経験のひとつだったと感じています。

授業がない時は大学のカフェで課題をして、大学の周りを散歩して、また課題をしに戻る、そんなことを繰り返す日が多かったです。路地が多く多彩な表情を持つホンデは、何度歩いても新しい発見がありました。
ホンデの大通りはいつも賑わっていて、観光客やバスキング(路上ライブ)の人々でひしめいています。日本にいる時に比べて、ポスターをよく見かけました。ホンデは新しい店が次々に建ち、イベントも多いため、すぐに貼り剥がしして新しい宣伝を行うためではないかと推測しています。いつもそこら中に貼られているポスターを写真に撮って歩くのが自分の日課でした。また、弘益を含む色々な大学の卒業展示を回ったり、DDPや国立現代美術館へ展示を見に行ったりもしました。

今回の留学を通して、日本で培ってきた感覚を良い意味で崩しながら、より柔軟な価値観を獲得することができたと感じています。17歳の頃の自分が惹かれたものの本質は何だったのか、これから自分が作りたいものは何なのか、あらためて問い直す期間でもありました。大学、人、街、デザイン、音楽、カルチャー……あらゆることにおいて、弘益は常に新しいエネルギーと勢いのある環境で、そこに飛び込んで得た経験は何にも代えがたいものとなりました。サポートしてくださった全ての人に感謝しています。

古波蔵奈菜

映像学科 ベルリン芸術大学 建築、メディア・デザイン学部 2022年4月~2022年8月派遣

写真:古波蔵奈菜

ロシアウクライナ戦争によるフライト変更に前日に気付き、バタバタと渡航したのをいまだに思い出します。
22:00のフライトが翌日7:00に変更になり、ロシア上空迂回のためフライト時間が伸び、ユーロが暴落し、それまで遠い国の問題だと思っていたことが自分の生活に影響して初めて、ヨーロッパに渡航するんだなと実感しました。

しかしベルリンに降り立ってみればそこは信じられないほど平和で、むしろ日本よりずっとコロナの気配も薄れ、想像していたよりずっと人々は優しいし、厳しい冬を過ごした後の穏やかなベルリンの街が広がっていました。

udkでは目立った課題のようなものは無く、学期末に行われるrundgang(オープンキャンパスと芸祭を混ぜたようなもの)に向けてのんびり制作を進めていました。
たまに学生や先生の知り合いが展示、イベントの出演者を募ったりはしますが、参加は自由。
授業を出席するも欠席するも自分次第。
私の所属していたクラスに関しては講評もなく、なんならrundgangへの出席も任意でした。

そんな放任された場所だからこそ、課題としての制作ではなく、アーティストとしての責任についてよく考えていた半年だったように思います。

udkの先生に、美大生、もしくは学生、と呼ばれたことは無く、いつもアーティスト、と形容されていました。
ただの言葉一つの問題だけど、私はこの言葉が好きでした。
自分がものを作る中で何かを選択した時、美大生ではなくアーティストと形容されると、全ての責任が自分の上にあることを感じさせられました。
武蔵美にいるより課題も授業もゆったりとしているのに、どこか緊張感が流れている理由はこれかと思いました。

ベルリンの街は、とにかくどこかがイカれています。
特に週末早朝の地下鉄なんて、カオスそのものです。警察に囲まれ大声で喧嘩する女の子たちの横でカップルが抱き合い、電車の中ではビールの空き瓶が電車の揺れに合わせてカラカラと転がる。
個々人がやりたいことに素直で、誰が何をしていようと気に留めない。居心地の良い街だなと思います。
しかし、いくらカオスの表層を見せていてもそこはヨーロッパの主要都市で。
ウクライナの旗を街中が掲げる中で、クラスメイトがロシアから来たと気まずそうに言ってきたりもして。
自分の考えが誰かを傷つける可能性があることを日常的に感じるところが、日本という島国との絶対的な違いだったと思います。

最後になりますが、私は言語が堪能な人間ではありません。
ギャラリーをアクティブに回った訳でもないし、
人並みに悲しくて、引きこもって丸1週間授業をサボったこともありました。
でも、そんなことが許されるのが留学だったとも思います。
東京では常に制作や課題に追われていたのに対し、ベルリンではじっくりと時間をかけて1つの作品を作ることができました。
単一言語、国家を離れ、自分の環境と思考回路を心機一転させ、のんびりと制作について考える時間から得られるものもあると、私は思います。