森廣優空

クリエイティブイノベーション学科 ケルン・インターナショナル・スクール・オブ・デザイン 2024年9月〜2025年8月派遣

写真:森廣優空

KISD(Köln International School of Design)は、世界中からデザインを学ぶ卵が集う学校で、学部生・院生合同でのプロジェクトベースの学びが中心です。授業は、学年や国籍を超えて誰かと協働することが自然と求められる環境でした。プロジェクトが好きで、英語でのコミュニケーションを楽しみながら、自らが熱量を持ってやりたいことを持ち寄る学生たちに囲まれて過ごした時間は、将来海外でプロジェクトを行う時の修行のようであり、非常に刺激的でした。

最初の数週間で、KISDでの姿勢や設備の使い方を学んだあとは、自分がどのプロジェクトに参加するかを選びます。私は3か月ほどの中期プロジェクトを多く履修しました。学生同士でテーマを立てて展示をつくり上げたり、世界各国から学生が集まるデザインワークショップの設計に関わったり、さらにはスコットランドの田舎で「人間と非人間の関係性」を探求する合宿に参加したりと、異なる文化背景を持つ仲間と協働する経験を数多く積むことができました。

また、KISDには「Self Initiative Project」という、学生が自らプロジェクトを立ち上げられるカリキュラムがあります。私はそこで「YadokaLiving」というプロジェクトを始めました。これは、移動式のリビングルームで、即興的な表現を通じて、背景や世代を超えた対話や実験を生む、取り組みです。学生や教授を巻き込みながら、ベルリン、ケルン、さらにポルトガルまで、ヨーロッパ各地でプロジェクトを試すことができたのは、KISDだからこそできた留学ならではの過ごし方だったと思います。この「yadokari picnic」を最初に展示したのが、ベルリンの日独センターで開催した「守破離―対話と表現の祭典―」というイベントです。このイベントにもクリエイティブディレクターとして力を注ぎました。文部科学省のトビタテ留学JAPANの支援をいただいた経緯で、他のトビタテ生を中心にヨーロッパ中の同世代と一緒に企画・運営を行いました。異なる背景を持つ学生たちとひとつの祭典を形にする過程は大変でしたが、大きな学びにつながりました。

正直に言うと、KISDでのプロジェクトに関わる中では、言語の壁や進め方の違いから、自分の力を十分に発揮できないこともあり、悔しい思いをする時間もありました。ただ振り返ると、その分、他の学生がどのように進行し、意見を交わし、形にしていくのかをよく観察する機会になっていたように思います。その経験のおかげか、「守破離」の運営では自分でも驚くほど自然に動けて、プロジェクトを進める感性が以前より確実に磨かれているのを実感しました。

他にも、初めは、KISDで留学の始まる1ヶ月前に、イタリアに渡航しました。Dance Wellというパーキンソン病と共に生きる方を主な対象に、年齢やダンス経験にかかわらず誰でも参加できる、芸術的な空間・実践があります。その講師トレーニング合宿にイタリアで参加しました。世界中から集まる、踊りの輪を開いていくことが好きな同志に出会えました。ベルリンに初めて行ったのは11月で、武蔵美に前交換留学に来ていた子を訪ねました。彼女が教えてくれたプロジェクトに、ベルリン2日目訪ね、そこから虜になり、今ではプロジェクトファミリーの一員としてお手伝いし、沢山のことを共有してもらいました。

自分の感覚を信じて、フットワークはいつでも軽く、身体も心も柔軟にいることを大切にしていたら、大学や旅やプロジェクトの余韻に、沢山の出会いがあり、今も感じ続けられる深いヨーロッパとの繋がりが持てました。家族のようで、時に、あなたは刺激をくれる先生だ、と言い合える、広い世代の友人ができました。話すだけでないコミュニケーションがあることを知り、人と関わることが怖くなくなり、結果英語も日本語も、自分の口で話せているという感覚を持てるようになりました。人間力が上がった、と自己肯定ができる、沢山の経験がありました。

どうか機会がある人は、協定留学を使って、日本の外に出てみてください。この1年を通して、デザインやアートを学ぶだけでなく、自分はどういう人なのか、世界ってどれだけ広くて何が起きているのか、色んなことに目が開かれました。インスピレーションを受けることに必死だった私は、ようやく日本に帰ってきて、ゆっくり何を私が吸収したのか気付かされる日々です。自分にとってかけがえのない1年でした。

内山時滉

映像学科 パリ国立高等美術学校 2024年9月〜2025年7月派遣

写真:内山時滉

パリには、穏やかな時間が流れていた。その街に立ち並ぶ建物たちは、美術品のような美しさを放ち、ただ散歩に出かけるだけで美術館を歩いて回るような楽しさとワクワクが身を包む。ヨーロッパにおける芸術の中心地であるパリには、時代を問わず様々な美術品とアーティストが集うのである。そんなアートの街パリに校舎を構えるのが、ルイ14世の時代より350年以上の歴史を持つパリ国立高等美術学校(ボザール)である。そんな世界中からアートを学びに多種多様な学生たちが集う空間であるボザールに、ムサビからの交換留学生として1年間在籍することができたので、そこでの生活について書く。

ボザールではアトリエ制という方法が採用されている。生徒は入学してすぐに自らが所属したい教授に連絡をとり、自らのポートフォリオを手に面談に臨む。実際に世界で活躍している様々なアーティストたちがボザールの教授として自らのアトリエを持っていて、生徒は自らの興味と好奇心を頼りに自らの所属するアトリエを選ぶ。すなわち、師事したい教授のもとで制作をしながら教えを乞うことができるのである。ボザールの課程は5年間であり、3年で学士、その後の2年で修士を取得することができる。5年間同じ教授のもとで学ぶこともできるし、途中で違うアトリエに移ることもできる。またボザールには作品を作るための技術的な講義も存在する。素描から絵画、彫刻や陶芸など、様々な分野の技術の習得が実践を交えながら行えるのである。これらの講義は希望すれば誰でも参加できるので、生徒たちには新たな技術の扉がいつでも開かれているのである。

そのような自由気ままなフランスらしさ全開のアートスクールであるボザールは、学校というよりは作家の集う空間のようであった。歴史のある建物に囲まれ、長く続いてきた伝統あるボザールという名前を関するその空間では、新たなアイデアとイメージを求める未来の作家たちが制作をして、議論をして、お互いを称え合う。その有り様、そしてそこにある日々の営みは、まさにパリが愛と芸術の街と呼ばれるようになった所以そのものなのである。芸術という開かれた暗闇が、未知のイメージを求める人々によって、その全容の断片が明らかなるのである。芸術とそれに立ち向かう人間が育まれる空間というのは、ボザールのような場所のことなのだろうと思わされるようであった。長い歴史に支えられて、その矜持があるからこそ芸術という未踏の想像上の領域を感じ取り、現実に創造することができるのである。

パリという空間もまた、非常に興味深い場所であった。その大きさは東京に比べるとはるかに小さい。山手線の内側にすっぽりとおさまってしまうような大きさであるが、そこには東京とは違った魅了が詰まっている。街を東西に流れるセーヌ川とその周りに立ち並ぶ歴史的建造物の数々は荘厳さを放ち、日々のただの散歩を映画のワンシーンへと変える。それらの美しさもさることながら、パリの魅力は大通りを一本入った小道にある。パリの街並みには厳格なルールがあり、それは、今も昔も変わらない街並みを残すための工夫なのである。そのおかげか、パリの街並みは自由気ままなフランス人気質とは裏腹に非常に整った作りをしているのである。この整ったパリの街並みこそパリを芸術の街たらしめる理由の一因となっていることに間違いはないだろう。パリという都市は、その歴史的、美術的意義のある建物や美術館、そしてパリの歴史を語る建造物に注目されがちだが、パリのちょっとした公園や駅から見えるなんということのない街並みにこそ、その美しさの根幹が隠れているのである。

相澤千裕

工芸工業デザイン学科 アールト大学美術デザイン建築学部 2024年9月〜2025年6月派遣

写真:相澤千裕

一年間の交換留学を通して、私にとってフィンランドは第二の故郷のようになりました。

物心ついたときから語学が好きで、ずっと外に出たいという漠然とした望みがありました。以前から問題解決型デザイン、持続可能性、社会問題という言葉をテーマにデザインを考えてきたことから、そういった方面に強いアアルト大学を選びました。フィンランドの風土や特徴はあまり考えずに選んだのですが、今となってはフィンランド自体を愛しています。

フィンランドに初めてきたときに驚いたのはパーソナルスペースのあり方でした。
基本的に、学生は、教授や学校の職員の方でもファーストネームで呼ぶことが一般的です。メールは『Hi, Janne』みたいな気さくな書き出しでいいと言われて驚いたことを覚えています。公共サウナでは、男女ともに裸になって同じ部屋にいたりします。
その反面、授業中に疑問に思ったことはすぐに手を挙げて主張したり、納得ができないことはやらないとはっきりと主張する気質も見られます。

日本では、場の空気が乱れるようなことは言わないことが良いとされていたり、上下関係はかなり厳格です。そんな社会で生まれ育ってきた私にとって、自己主張というのは常に勇気や準備がいるものでした。しかし、フィンランドで出会った友人たちのおかげで少しずつ自分のままで意見を言えるようになったと思います。

アアルト大学での生活を通して学んだのは、自分の意志をどうやって確立しながら物を作るのかということでした。
ものづくりにはよくあることだとは思いますが、制作しているうちに一体自分は何をしたかったのかわからなくなったり、どう帰結するのか決められなくなってしまうことはままあります。
ある授業で、自分のコンセプトを説明したとき先生に「over conceptualizing」と言われたことがあります。本当にやりたいことはもっと自分のパーソナルな思いにつながっているはずなのに、社会を巻き込んだ話にしようとして話の規模が大きくなりすぎていると言われました。
私はずっと、物を作るからにはどこか社会とつながりを持たなければいけないと思っていて、自分の欲だけで物を作るのは罪悪感が伴い、どこか一般論も意識しながら物を作っていたところがありました。
しかし先生のその言葉を聞いて何かから解放されたような気分になりました。
自己が伴っていない作品が他人を動かすのは困難だと思い始め、表現に自分の感情をもっと入れ込んでいこうと考えを改めるきっかけになりました。
また、アアルト大学ではプロセスを常に記録して最終成果物にはその記録をレポートとして提出することがよくあります。
自分の思考を日々こまめに整理していくうちに、自分の思いが形成される過程には社会も当然のように組み込まれていて、意識的に社会とつながろうとしなくても元々どこかで影響を受けているのだとわかりました。

また、留学生活を通して武蔵美とは別の軸の判断基準ができたのもとても良い経験だったと思っています。
以前までは、大学内での出来事が全て自分の作品やデザイナーとしての評価だと思っていました。講評で評価が悪かったりすると全てがダメに見えてしまってその作品自体もう見たくないと思ってしまうこともありました。
留学中にフィンランド人の作品だけでなく、別の国の留学生の作品や他国の美術館などもたくさん見ることができました。自分の価値観からは想像もしなかった方向性の作品をみて感動したことで、ものの見方は一つじゃないと実感しました。制作の広げ方も手数が増えたような気がします。

交換留学に行って得られたものを大切にして、ものづくりをしていきたいです。

長谷川彩華

工芸工業デザイン学科 ミラノ工科大学 2024年9月〜2025年2月派遣

写真:長谷川彩華

私にとって、イタリア・ミラノ工科大学への留学は、様々な点において、「多種多様な世界を経験する6ヶ月」だった。慣れないイタリアという土地での生活では、入国一週間以内に行わなければならない、拙いイタリア語での滞在許可証の申請から始まり、24時間開いている、コンビニのようなお店が無くて苦労するのはもちろんのこと、ストライキの為に2時間徒歩で通学することがあれば、旅行から帰ってきたらほぼ毎日使っていたトラムの路線変更で、行き先が変わってしまうなど、不便と感じることが山ほどあった。日本は便利すぎて、「なんとかなる」という言葉の重みが、海外での暮らしでの重さと比べると、軽すぎるように感じる。人が使うことを考えながら行う物のデザインを勉強する私にとって、不便なところで生活するということは、とても有意義なことであった。

ミラノ工科大学での授業は、武蔵美での専攻が木工であったため、少し的外れであった。武蔵美では、物をデザインし、自分で作って仕上げるところまでが作業であるが、ミラノ工科大学のインテリア専攻(私がいたクラスは、プロダクト専攻も混ざっている、唯一のクラス)は、模型までで終わりだった。模型や、ケーススタディなどの立体物も通した発表が最終講評であったのだ。武蔵美でのプレゼンテーションよりも、より「相手に伝えること」が重視されていたように感じる。最初は、何をしていいか分からず、そして模型で終わることに対して物足りなさを感じていたが、ミラノ工科大学の生徒の「リサーチ力」そして、「競争心」を目の当たりにし、自分の制作のプロセスについて深く考えるきっかけになった。
そして、勉強していて一番に思ったことは、武蔵美のアート的なところとは反対に、ミラノ工科大学はテクニカルだ、ということである。武蔵美では、作業の70%が手を動かす作業だったが、ミラノ工科大学では、90%がパソコンに向かっての作業だった。AIの普及率も高く、生徒はAIを駆使して授業の課題をこなしていた。3次元の作品を作るためにワークショップ(工作センター)も存在はするが、入れる人数が少なく、講評前に予約を取るのは不可能に近かった。
二つの大学を比較して、唯一同じだと言える点は、授業内においての教授との関わり方である。例えば、毎週行われる教授との進歩具合の相談では、必ず教授と関わることができる。しかし、それ以上にもっと質問がある場合や、相談がある場合でも、個別に相談に乗ってくれる。つまり、自分次第で学びの量が変わる、ということは武蔵美と変わらないのである。

大学では、自分の専攻とは若干違うクラスを取り、休みの間はたくさんの国を見て周り、そしてたくさんの機会に恵まれ、日本ではありえないような、たくさんの文化の違いに触れた。日本でできる作業だとしても、違う国で行おうとすると、条件も便利さも違い、作業に対して違う側面を見出すことができた。留学を通して一番変わったと言えるのは、探究心による行動力である。日本にいたときも、自分のフットワークは軽かったと言えなくは無いが、日本語も英語も伝わりにくい、イタリアという国に来てから、「とりあえず分からなくてもやってみよう」という気持ちが大きくなり、その気持ちによる行動があったことで、たくさんの機会を得ることができた。将来やりたいことが何かわからなかったわたしにとって、半年間という短い期間で、全く未知の世界で、自分の好きなことを突き詰めていったことは、今まで答えが出てこなかった自分への問いを見つけるきっかけにもなり、自分の様々なことに対する変化を感じ取ることができた起因にもなった。学生と社会人の狭間である、3年の後期という時期に、20年を超える月日を過ごしてきた日本から離れて勉強したことは、貴重な経験になった。

古川諒

日本画学科 ベルリン芸術大学 2024年10月〜2025年2月派遣

写真:古川諒

留学期間のみで換算すると5ヶ月という月日でしたが、そのために費やした時間を含めるととても長く感じました。私はベルリン芸術大学のValerie Favreという教授のクラスで留学を行いました。スイス出身の教授でとても経験豊かな人で表現者としても一人の人間としても尊敬できる人でした。彼女と直接話すだけでなく、個人的に彼女が所属するスイスのギャラリーに訪れるなどとても刺激を受けました。私はExchange Studentとして短期的な留学に参加しましたが、Erasmus Studentとしてヨーロッパから来ている学生や正規性としてドイツ以外の国籍を持つ人などベルリン芸術大学は世界中から様々な学生が訪れており、クラスの中でもそれを感じました。クラスのアトリエはいくつかの部屋に別れており、そこを行き来して活動が行われていました。具体的には週に一度行われるCercusと呼ばれるプレゼンテーション会や映画鑑賞会などがありました。学内だけでなく、ベルリン市内の博物館や絵画館、ギャラリーなどを訪れる活動も行いました。クラスメイトの各々が様々な手法で制作を行なっており、当初は何から手をつけるべきか困っていました。最終的には断片的にですが作品を作ることができ、クラスメイトへのプレゼンテーションと教授との対談を行いました。クラスでのプレゼンテーションでは活発に意見を出してもらい、作品の進展を考えるきっかけになりました。教授との対談では、作品への解釈だけではなくストーリー性についても供述され、私自身の体験や感性を作品に落とし込むことにもう少し忠実であるべきだと感じました。

大学での活動とは別にライプツィヒというベルリンからFlixバスで1時間ほどかかる街で行燈を作るワークショップも行いました。半年前からスペースの方に連絡をとり、素材の準備や計画を練って実施しました。ワークショップを実施するのも初めての体験であり、私の思惑からどこまで参加者の意思を汲み取るのかを考えるという点でとても勉強になりました。実際に作ってもらった行燈は参加者が持ち帰るかスペースにおいてもらう形をとって無事に終わりました。

留学期間中にも世の中の情勢が変化している中で、ドイツ政府の文化資金削減に対してベルリン芸術大学でも抗議活動が行われていました。私自身長期的に海外に滞在するということが初めてであり、ビザ申請のために市民局や外国人管理局に数回通いました。日本人としてではなく外国人という括りの中で社会の流れを感じ、私自身がその中にいることを日本にいるとき以上に考えさせられました。

留学全体を通して、一時期気難しく考えすぎてしまい身動きが取れなくなってしまう時期がありましたが、せっかくヨーロッパに来ているのなら地域や人に触れることも経験の一つだと思い、休みの期間はできるだけ旅行に出かけるようにしていました。ヨーロッパの冬は気候のためか陰気臭いところもありましたが、その分人々がどのように楽しむのかも感じられました。最後に“豊かさ”について、暮らしの中で人間一人一人が持っている時間や様式が違う中で、“貧しく”なる以上に “卑しく”なることが自分だけではなく他者にどれだけ感染していくのかを感じました。留学期間中に知った画家に”ヴォルス”というアンフォルメルの画家がいるのですが、「美しいものを知るためには卑しいものを知ることが不可欠だ。」という言葉を残しています。私はその一部を知り、今後の表現や暮らしの中の糧にできればと考えています。